野生生物保護管理の基本的な性格と特徴1)

松田裕之(東大海洋研)

 野生生物保護管理の究極目標は、「健全な生態系の持続」と「自然資産の持続的な利用」の実現にある。自然の恵みを後世に遺すことは、今や生物多様性条約と環境基本法にうたわれた人類の基本理念である。20世紀に入り、深海底を除き、前人未踏の原生自然(辺境)は地球上からなくなった。そのため、野生鳥獣も人間と離れて住むことはできなくなった。

 同時に、現代は生命の誕生以来、第6の大量絶滅の時代といわれ、私たちの周りから、自然がどんどん消え失せている。私たちが子供の頃に周りにあった自然が、今、私たちの子供の周りにはない。自然の造詣はテレビ番組で学ぶことになるが、それは所詮は自然の片面でしかなく、たとえば、自然の楽しさを知ることはできても、一歩間違えば自然がどう豹変するかは知ることができない。今月、神奈川県の玄倉川で起きたキャンプ遭難事故は、人と自然の不適切な関係を象徴している。テレビなどの新しい媒体は、自然だけでなく、人工物も含めて現実の片面しか映さない。これを仮想現実という。たとえば、フライトシミュレータは本物の飛行士の操縦訓練にも用いられるほど精緻である。しかし、機長が多くの人命を預かっていることは疑似体験できない。だからこそ、綿密にできたマニュアルや管制塔の指示だけではどうにもならない、現場の機長の機転が求められる。それは鳥獣保護行政でも同じである。マニュアルや専門家を育てることもたいせつだが、現場の行政担当者の責任感と機転が成否を左右する。

 

 自然を次々に失う一方で、今世紀の人類は、自然の恵みがなければ生きていけないことを思い出した。自然の恵みは、大きく3つに分けて考えることができる。第1に農林水産業資源。おもに食糧源として経済価値を持つ。第2に生態系サービス。酸素をもたらし、海や河川の水を浄化し、物質を循環させる環境浄化機能。そして第3に、自然を身近に感じることの快適さ、自然に対する畏敬の念がある。農林水産資源の一部は、自給自足経済から貨幣経済に移ったときから貨幣価値を持っていたが、日本のシカ肉は今では自家消費の対象でしかない。生態系サービスは、自然がありふれているときには経済価値を持たなかったが、生態系サービスの価値は、農林水産資源の価値よりはるかに高い。一説に、世界の自然資産の総和は、分かっているだけで毎年数千兆円と言われる2)。世界の国民総生産GNPの総和が2000兆円と言われるから、それより多い。干潟の価値を、漁獲量の減り分だけで評価することの愚かさが、だんだんにわかりかけている。

 

 野生鳥獣と人間の軋轢は、原生自然がなくなり、人里近くに野生鳥獣が住むようになった結果であり、自然を知らない人々が、野生鳥獣に餌付けをするなど、不適切な関係を作り上げてきた結果でもある。今夏の東京麻布の猿騒動はその一例である。多くの住民がこの猿に餌をやり、1ヶ月で野生に戻れぬ猿になってしまったという。人と野生鳥獣を隔離できない以上、人と自然の適切な関係を築き直すことが強く求められている。ところが、現実には、人と自然の不適切な関係が拡大再生産しつつある。この悪循環を断ち切らないといけない。鳥獣保護行政はその鍵を握る、大変意義のある仕事なのである。

 野生鳥獣が永らく住んでいた「奥地」にまで人間が入り込んだために、鳥獣保護管理は農林業被害対策と鳥獣保護の板挟みにあっている。鹿のように数が増えすぎて軋轢を生じたものは、適正な数に減らし、絶滅を避けながらある程度の被害を我慢していただくことになる。これはまだ易しい。熊のように、数が少ないのに被害が増えている動物の管理はむずかしい。特に、熊の被害は金だけでなく、人命にかかわる。個体数だけを指標に管理しても、数を維持して被害を減らすことはできない。北海道の斜里町では、人を恐れる良い熊(アイヌ語でキムンカムィ)と人を襲う悪い熊(ウェンカムィ)に分け、良い熊を増やして悪い熊を減らす保護管理計画を立てている。悪い熊は駆除するか、お仕置きをした上で改心をうながす。餌付けや生ゴミ放置などの不適切な関係を改め、悪い熊を作り出さないように努める。これは、犯罪者を出さない政策に似ている。犯罪者を取り締まるだけでは、治安はよくならない。悪の温床を断つことがたいせつなのである。

 熊に餌をやってはいけないことは、まだ説きやすい。猿やカラスに餌をやることが数を増やし、被害と軋轢をもたらしていることなど、思いも寄らない人々が多いのではないだろうか。それこそ、「人と自然の適切な関係」が誤解されている証拠である。

 

 野生生物保護管理の基本的な特徴は、(1)個体数や生存率など、基本的な生態情報さえわからない不確実な系であること、(2)放置しても変わり得る非定常系であること、(3)境界がはっきりしない開放系であることである。

 一般のシステム管理でも、不確実性は存在する。スペースシャトルのチャレンジャーは、人手と金と威信をかけて綿密な危機管理を行っていたにもかかわらず、部品一つ足りないと言う思わぬ不備で大惨事を招いた(原因を突き止めるのがすごいところだ)。薬害エイズ事件でも、失敗して初めて新たな問題に気づく。その場合の原則は、「過ちを改めるに如くは無し」、つまり間違いだと分かる度に反省して改める説明責任(accountability)である。分からないこと、間違えることが無責任なのではなく、気付いたときに間違いを改めないことの責任が問われる。保全生態学の標語では、これを「為すことによって共に学ぶ」という。この「共に」というのは、行政だけでなく、計画を決める際の透明性を高め、市民とともに学ぶことを指す。

 不確実性が残る限り、失敗する恐れ(risk)はゼロではない。ダイオキシンなどの環境化学物質も、おびただしい種類の人工有機化合物がすでにあまねく地球に散らばっており、人体や生態系に及ぼす悪影響はゼロにはできない。その危険性をできるだけ正確に見極め、少しでも減らすよう、合理的な判断を下すことが求められている3)

 以前の行政の態度は、「依らしむべし、知らしむべからず」という高圧的態度だったが、やがて現在の施策がいかに安全かだけを宣伝するようになった。現在の原発政策などはこれに当たる。けれども、危険性を査定(risk assessment)し、少しでも減らすように管理(risk management)し、どの程度の危険性が残っているかを市民に周知(risk communication)する必要性は、説明責任の定着とともに、遠からず、環境行政に必須のものと認められるようになるだろう。

 

 自然は非定常である。平家物語の言葉を借りれば「諸行無常」である。交通システムをはじめとする人為的システム管理が定常状態の維持を目指すのに対し、生態系はある程度の変動幅、あるいはほどよい速さでの遷移を維持することが求められる。自然は遷移と撹乱の釣り合いがもたらす不均一なモザイクなのである4)。非定常という点では、為替の変動相場制も同じである。この場合の管理指針は、いつも同じ政策を維持することではない。状況変化に応じて対策を変えることが求められる。その対策の変え方(アルゴリズム)をあらかじめ決めておく順応性(adaptability)がたいせつである。道東地区エゾシカ保護管理計画5)の場合、個体数を監視し続け、増えたら雌をとり、減ったら雄をとる。

 このように、鳥獣保護行政では、状態を常に監視し続け、政策変更にフィードバックすることが求められる。三浦愼悟氏は、「責任ある試行錯誤」と呼んでいる6)。このように、監視と順応性と説明責任を備えた管理を、北米では順応的管理(adaptive management)という。限られた情報でも、順応性を持って対処すれば、それなりに管理できる。しかし、絶滅を防ぐためには、予防的な措置(precautionary approach)をとり、適正個体数を高めに置かざるを得ない。不確実性を狭めた方が、きめ細かい管理ができる。社会的要請に従って管理を実行する中で、監視態勢を整え、より精緻で科学的な管理態勢を作り上げることもたいせつである。

 

 鳥獣保護管理のもう一つの特徴は、県境をまたいで生息し、移動していることである。したがって、県単位に別々に保護管理計画を決めることは有効ではない。県内でも移動する。ある観察点での個体数(密度)が減っていても、他の地域に移動し、全体として増えている恐れもある。野生鳥獣が住んでいる環境も均一ではない。年により状況が異なり、移動する。

 これらの特徴は、野生鳥獣保護管理だけではなく、漁業管理にも当てはまる。法的には無主物とされる野生生物が被害をもたらし、漁業では経済価値を持つ漁獲物となる。フィードバック管理はクジラの国際管理を行うために提唱された理論である。漁業も乱獲による資源枯渇が深刻であり、東シナ海などでは国際管理が求められる。県境の管理よりさらにむずかしい。

 結局、一般のシステム管理に比べて格段にむずかしいと言うことはない。最大の問題は、上記の理念を個々の鳥獣で具体的に裏付ける技術、基礎研究が足りないことであり、現場の人手と予算が足りないことであり、社会の理解が足りないことである。これが、環境行政がぶつかる壁である。今、比較的うまくいっているところは、現場で踏ん張る人材の熱意と責任感と才能に負っている。この壁を越えるために、その歴史的使命を意気に感じ、現場の行政担当者と、研究者と、市民のねばり強く腰を据えた協力関係が必要である。

 

草刈秀紀氏(世界自然保護基金日本委員会)人と自然との適切な関係を取り戻すためには、環境教育も必要ではないか。

松田:その通り。自然保護団体が市民を集め、私たち研究者を呼んで、自然保護と動物愛護の違いなどを議論することもたいせつである。

吉田正人氏(日本自然保護協会)自然を科学的に管理すること自体が不遜であるという意見もあるが、それを置いても、カモシカ問題など、管理はうまくいかなかったではないか。

松田:管理の成否は、数が減ったときにきちんと歯止めをかけられるよう、エゾシカ管理計画のようにあらかじめ保護に転じる条件をあきらかにすべきである。しかし、結局はこれらの計画をきちんと実行する人材が現場にいるかどうかが鍵となる。


) この原稿は、ワークショップで用いたスライドとともに

(

http://risk.kan.ynu.ac.jp/matsuda/1999/ma0827.html)にて公開している。

2) Costanza R et al. (1997) The value of the world’s ecosystem services and natural capital. Nature 387:253-260.

3) 中西準子『環境リスク論』(1996,岩波書店)

4) 鷲谷いづみ・松田裕之(1998)生態系管理および環境影響評価に関する保全生態学からの提言(案)応用生態工学

1:51-62.

5) (

http://risk.kan.ynu.ac.jp/matsuda/deer.html)

6) 参議院国土・環境委員会議事録http://www.asahi-net.or.jp/~zb4h-kskr/d2-miura.htm