2001年4月4日=新宿センチュリーハイアット
=故松宮義晴先生を偲ぶ会
挨拶
本日は、藤沢での水産学会会期中、たいへんご多忙のところ、ご出席ありがとうございました。私は、東大海洋研資源解析分野助教授の松田と申します。
私どもは、松宮先生のお人柄、先生にまつわる皆さんの思い出などをまとめ、本日お手元に配りました追悼文集を作りました。CD―ROM版で、すぐに中身をご覧いただくことはできませんが、後で勝川さんと森山さんの方から簡単に使い方と内容を紹介します。中には先生の業績目録や講演要旨だけでなく、先ほど会場で流しました先生のご講演の録音や録画も入っています。学生時代から急逝される直前までのお写真もございます。追悼文と資料を提供いただいたすべての皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。
松宮先生は、一九四八年四月十二日に東京都でお生まれになり、開成高校、東京大学農学部水産学科を卒業され、東京大学大学院博士課程在学中に長崎大学水産学部の助手になられました。その後助教授に昇格されて長崎大に十二年間勤められたのち、一九八七年に東京大学海洋研究所の助教授に着任されました。その3年後の九〇年から4年間三重大学の教授を勤められ、九四年から東大海洋研の教授になりましたが、わずか6年で旅立たれてしまいました。享年五一歳でした。
松宮先生の七五編の論文の題名には、サンマ、マダイ、ハゼ、スルメイカ、スズキ、イサキ、ナマコ、ヨコエビ、アナゴ、サバ、サケ、マス、イワシ、イセエビ、ズワイガニ、イサキ、そしてアユと、さまざまな魚種名が登場します。皆さんご承知の通り、学位論文はサンマの研究で、日本水産学会奨励賞を受賞されました。
共著者の数も、六〇人に上ります。一つの研究グループにとどまらず、魚種と課題と手法に応じてさまざまな研究グループを組織され、またさまざまな方から頼りにされてきたことが数字の上でもはっきりします。
松宮先生はご自身ではほとんどワープロを使わず、海洋研の教授室にはパソコンがありませんでした。よく、封筒の宛名や原稿を切り貼りで作られていました。松宮先生といえば、アユ釣りと、中日ドラゴンズと俳句を思い出します。これらについてはたくさんの方々の追悼文の中に紹介されています。
松宮先生は、魚種だけでなく、研究課題も、解析手法もさまざまでした。CD―ROMの裏側の図をご覧ください。この図は、先生の「水産資源管理概論」という教科書に載っている図で、山川卓さんの追悼文に紹介されています。私たちが、数年前から松宮先生の曼荼羅図と呼んでいるものです。水産資源学にとって必要な事柄を、松宮先生はこの図にまとめ、折にふれて紹介されてきました。水産のために役に立つことは何でも勉強し、貪欲に応用され、他分野の研究者と交流されてきた様子が、この図に凝縮されています。
松宮先生がなさっていたことの中には、受け継ぐことは愚か、私たちが全く知らないことも数多くありました。この文集をまとめるうちに、改めて先生の遺志を引き継ぐことの重荷を感じました。先生は、たいへん理想の高い方でしたが、同時に励ましと包容力にあふれた方でした。山川さんも仰るように、この曼荼羅図に書かれたことのうち、どれか一部でも引き継いでいきたいと思います。すべてのことを誰かが受け継ぎ、皆で曼荼羅図を育てて行けば、そして受け継ぐ人々がともに松宮先生の思い出を胸に抱き、ネットワークを作っていけば、水産資源学の未来は切り拓かれるではないかと思います。私を含めて実に多くの人が他分野から松宮先生の熱心なお誘いに惹かれて職をいただき、水産学の研究者として加わってきました。
今月から、松宮先生の後任に、長崎大と三重大でも先生の後任を勤められた白木原國雄先生が着任されました。本日は、水産資源学の新しい門出となる日だと思います。3年程前まで、わが海洋研資源解析研究室は大学院生が少なくてさびしい思いをしてきました。去年は後でスピーチいただく安江君をはじめ4名もの人材が加入しました。先生が亡くなったことは院生にとって青天の霹靂でしたが、人材を育てるのが大好きな松宮先生にとっても、さぞご無念だったことと思います。けれども、人材が集まる流れはもはや確かなものです。松宮先生が遺された研究の活力と使命感と気合を、はぐくんでいきたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。