なぜ絶滅リスク評価が必要なのか? 松田裕之(東京大学海洋研究所)  ただいま御紹介にあずかりました松田と申します.東京大学の海洋研究所というところにおりますが,数理生態学というのを専攻しています.数理生態学というのは,生態学の世界を数学で扱える部分をとことん扱うという学問であります.今日何から話をしようかなと思いましたけど,家族に,実は今日行くところ,コウノトリの郷であると言ったら,昨日,今日ですか(皇太子妃が出産されたことに関連して)新聞で一番飛び交っていたことがコウノトリである.こんなめでたいことはないというふうにな言われました.なるほどと.それにつけて,こちらの池田啓先生からリスク評価というものについての考え方をちょっと話してほしいということを仰せつかりまして,今日話をします.  なぜ今自然を守らなければいけないというところからいつも話が始まるんですが,私はいつもこういうスライドを用意しております.つまり自然を守るというのは,人間社会の持続可能性が問われている.今や前人未踏の,あるいは手つかずの自然というものがなくなっていく.私,海洋研ですから,すぐ反論を申し上げまして,深い海の底は,まだこれから実は開拓されてしまう恐れがあるところだというふうに申しますけど,陸上からは辺境がなくなった.あるいは海岸線からもほとんどもうなくなっている.地球環境と生態系の負荷が増えている.人間1人当たりのエネルギー消費量,これはゾウ20頭分だとよく言われます.人口が爆発的に増えているのと同時に,1人当たりのエネルギー消費量も爆発的に増えています.その掛け算が地球全体に対する人間の負荷として現れています.ですからこれからもし人口問題を解決しようとして,人口の増加を止めたとしても,1人当たり途上国の人が皆先進国並みの,つまりゾウ20頭分の負荷を消費をするようになれば,どんどん負荷は増していくわけです.環境問題を一番クリアに表したものが二酸化炭素濃度の上昇です.これはキーリングという人が最初に見つけたものとして知られております.  もう一つは生物の大量絶滅ですが,これもよく言われていますように,一日当たりの生物種の絶滅が数種,あるいはそれ以上である.このペースは恐竜の絶滅時代をしのぐものです.となると,必然的に言われるのが,例えば私が子供のころに,私の身の回りにあった自然が,今,自分の子供の回りにないということを感じるわけです.子孫に自然を残すということが大事である.その自然の恵みは何かといいますと,主に三つ価値があると言われています.三つの価値に分類される.  一つは,農林水産資源であります.例えばカニというのは,これを水産物として売れば,それだけお金になるものであります.でもそれだけが自然の恵みではない.海の幸山の幸だけではなくて,生態系自身が,例えば新鮮な酸素を供給する,水を浄化する,そういうサービスを行っている.実はいろんな試算をしますと,農林水産物の資源としての価値よりも,生態系の機能を通じたサービスの価値の方がはるかに高いという試算が数多く出ております.  あともう一つは,これはアメニティという人がいますけど,精神生活を豊かにする快適さというのは自然の価値にあるんです.これらすべてを価値評価するというのは,後で環境経済学者の岡敏弘先生がいろいろ御説明されると思いますので,私は詳しくは述べませんが,これらの三つの価値はどのように評価されてるかということを申しますと,先ほどの農林水産資源で,それと主にこの二つを合わせればいいんですが,生態系サービス,どういうところに価値が高いかというのを表したもの,1997年Natureに載った論文です.この世界地図が載っているんですが,赤いとこ黒いところが1ha当たり,1年当たりの価値が,例えば1万ドルであるとか1,000ドルであるとか,黄色いとこは1,000ドルという価値になっています.色の濃いところが価値が高いわけですが,当然,アマゾンの熱帯林とかアフリカのところ,東南アジアこういう熱帯林が非常に価値が高いと思いますが,それだけじゃないというのがわかります.どこが高いかといいますと,海岸線ですね.大陸棚,特に干潟などの価値が非常に高く評価されるということが分かっているわけです.そういうものを,自然の恵みを利用するということは,これは今も昔もそれなりに負荷をかけているということです.自然というのは利用する負荷が多ければその分だけ損なわれてしまう.しかし,適度に利用していれば持続可能に利用し続けることができる.なぜならば生物は再生する資源でありますから,一言で申しますと,種もみをずっと残しながら採っていけば末永く利用することができる.ところが,それでも種もみを取り尽くすぐらい利用し尽くしてしまうような自然破壊が結構ある.これが乱獲です.乱獲が経済的に合理化される理由は2つある.一つは毎年少しずつ採るよりも,根こそぎ採って他のと・アろに投資する方が得である.例えばクジラです.ミンククジラは今南氷洋に76万頭ぐらいいると言われています.それが国際捕鯨委員会の科学委員会で合意された持続可能な捕獲量は2,000頭です.もし76万頭丸ごと全部採ってしまって,全部お金に換えられたらの話ですけども,全部換えます.例えば銀行に預けます.年1%の利子しか付かないとしても7,600頭分の利子が毎年付くわけです.そうすると持続的に少しずつ・u」・献蕕箸いΨ辰澆鰺・僂径海韻襪茲蠅癲ち管・里辰討カ發亡垢┐進・・世任△襪箸いΔ海箸砲覆辰討靴泙Α・・w)w) もう一つは,自然の恵みというは,共有の財産であるところから来るわけですが,自分が乱獲をしないようにしようと思っても,ほかの人に採られてしまう.そうすると現在の利益は,その採ったほかの人のものになる.乱獲すれば将来の利益は失われます.それは他人だけが天罰を食らうんじゃなくて,我慢していた自分にとっても将来の利益は失われる.それなら早い者勝ちだという.これを共有の悲劇,あるいは共有地の悲劇といいます.  あともう一つ,これは普通の教科書には載ってないこととして重要なことは,持続可能に漁業するのが大事なんだと私が幾ら言っても「どうせ私には後継ぎがいない」と言われたらもう私はそれ以上説得するすべを失うことはよくある.持続可能性をもっと大事にしようというときに,やっぱり後継者がいないというのは困る.  あともう一つは,生物多様性を守るというのは,国際的な合意なんである.これは生物学的な説明とは言えないかもしれませんが,生物多様性条約が1992年に採択された.これによって例えば日本でも環境アセスメントが法律が整備された.今も生物多様性国家戦略というものが,パブリックコメントにかけられているんですかね.そういうような状態になっています.もう一度別の側面から見たものに,これは自然の権利訴訟というものをやっている方々のある弁護士の意見を借りてきたんですが,自然保護の根拠には三段階ある.まず最初の1902年とか1933年とか,こういう古い時代には何が言われていたかというと,その時代の人類の利益を守るために自然を守る必要があるんだということが言われた.でもこれだけでは,実は先ほど言った乱獲の根拠によってなかなか自然を守ることはできない.そうすると次のロジックとして出てきたのは,将来の人類の利益を守りなさい.これが必要になる.ここまでは多分一致した意見だと思います.彼らが言うには,三段階目がある.それだけじゃやっぱり足りない.自然の内在的価値,自然のあるがままを尊ぶこと自身が・u刋タw)必要なんだ.そういうことは,1982年当たりの条約から言われ始めていると.この辺に関しては,聞いてみますと,その自然の権利運動をやっている人々の間でも,いろいろ議論があるみたいです.これも彼らいうことに私の意見をつけ加えたものですが,自然というものはどういうものかと.  まず一つは,自然がすべて失われたら人間は生きていけないという意味の規定性というのがある.それから先ほど申しましたように公共性がある.だから私的所有権というのと,この自然を守るということは,なかなかなじまない場合が当然出てくるわけです.自分の土地だからどうしようと自分の勝手だと,法律的にはそういう部分もあるわけですが,他方ではその分自然が損なわれると,自分だけじゃなくて回りの人にとっても迷惑がかかる.  それにもう一つ,切ってきり離せない概念が連続性.それはどういうものかといいますと,ある一部の生態系を壊してしまうと,ほかの部分を残したとしても,例えば10ある自然のうち2割をつぶしたとして,残りの8割の自然が今までどおりの恵みを受けられるかというと,なかなかそうではない.自然というのは連続しているということが挙げられます.例えばコウノトリの越冬地と繁殖地の,どっちかをつぶしたらコウノトリは全滅するということになり兼ねない.  もう一つは,固有性というのがあります.これを生態学者は特に重視します.つまりどの自然の生き物もすべて唯一無二,全く同じものがないんです.全く同じものがないということが非常に貴重なものです.そうしますと,極端に言えばすべて守らなければいけない.でもそれはできないわけです.それが実は下の二つに関係するんですが,この上の三つは自然の権利運動やっている人々のロジックでしたが,下の三つは私付け加えたものですが,実は自然というのは,すべていつか絶滅する運命.人間が手を下そうが下すまいが,希少なタカはいつか死ぬわけです.人間も同じです.種もいつかは滅ぶわけです.今,私たちが問題にしているのは,人間のせいで,恐竜の最後の大量絶滅時代にまさる頻度で,次々に自然がなくなっていく.これが問題なんであって,永久にすべてを残せというもんではないということです.  もう一つ最後に挙げられるのは,環境影響評価法では,ほとんどこの概念がないことが問題になったわけですが,自然は人間が手を下さないと定常状態にある.つまりずっと未来永劫不変であると.こういう前提でものを考えてはいけないということです.これは無情というのは,諸行無常というやつですね.つまり放置していても必ず変化する.それが本来の自然なんです.その生物の大量絶滅をもたらす人為的行為は主に四つ挙げられます.一つは生きている場所そのものを開発によって破壊すること.もう一つは,さっき言ったように乱獲することです.さらに環境化学物質の話をするときに主に問題になります,環境汚染,あるいは,環境を劣化させるということがあります.最後に外来種の問題があります.いろんな統計を取ってみますと,希少な生物がなくなっている原因として,統計上一番上に挙げられるのは生息地の破壊であることが多いです.その次は乱獲であって,環境汚染は,これなかなかはっきり環境汚染のせいで減ったというものは,統計上なかなか見えにくいようです.だからといって本当に影響が少ないと言えるかどうかは分かりません.さて,この環境・uハ簑蠅鮃佑┐襪箸C法て辰鵬奮惻團汽ぅ匹・貳峙い砲靴討い襪里蓮ね祝標桐・蕗・會繝癜・闔癇・頏蜴竕韭・ぢ)です. ここに,これは1992年のリオデジャネイロ宣言,地球サミットと呼ばれているころですが,そのときの第15原則に書かれていることなんですが,そのときにはPrecautionary measureと書かれていましたけど,環境に対して深刻,あるいは,非可逆的,つまり取りかえしのつかない打撃を与えるとき.科学的に不確実だからという理由で,環境悪化を防ぐ措置を先延ばしにしてはいけない.そういう予防原理が国際合意になった.これは科学者にとっては大変な事態です.なぜかと言えば,科学者というのは,証拠がそろわなければ社会に対して物を言わないというのが本来の姿.証拠がそろわない段階で何か物を言わなきゃいけないとなると,途端に何を言ってもいいのかと思ってしまうことがあり得るわけです.そうじゃないとすればどのぐらいの証拠で,どのぐらい物を言ったらいいのかという,大事な問題が実は未解決なんです.今の予防原理はちょっと英語で済みませんが,生物多様性保全条約にも地球温暖化防止条約,気候変動枠組み条約ですね.これにも明記されています.すべて予防原理によって対策を立てるんであると.したがって,今申しましたとおり,押w)蕗・w)学者というのは本来肯定も否定もされないことは信じない.例えば「私は血液型占いを信じません」というのが,私の科学者という見識を示す言葉の一例になるわけです.ところが,今はそうではなくなってきつつある.「科学的に怪しくても政治的に注目される問題というのは幾らでもある」.これはあるジャーナリストの言った言葉だと言われてますが,むしろ負の相関があるんですよ.科学者の採るべき態度は先ほども言っていますように,地球サミット前,つまり予防原理が国際合意になる前は根拠なしに物を言わない.世論に変わらずみずからの見解を変えないというのが正しい態度である.私の模範はガリレオ・ガリレイであるということになってたわけですが,後になりますと,物を言うことが歓迎されるようになってしまった.ある科学者は象牙の塔に引きこもって物を言わない,あれは誤用学者だとか.そんなことはないと思うんですが,物を言えばいいかというと不確実な段階で物を言っても,これは科学者にとっては非常に勇気もいるし,それこそ間違えることがある.もっとひどいのは,科学論争を多数決で決める.あるいは,世論を味方につけて自分のキャンペーンを・uツ・・w)る.これは本来はやってはいけないことです.ではどういうふうに,この予防原理にのっとって科学者が物を言うべきかという基準が,僕が見る限りまだ見当たらない.そうすると個々人の勝手なといいますか,思い思いの良心的な基準でもってものを言う.それは多分いろんな人によって違ってきます.これは最大の問題であると僕は思っています.生態リスク,つまり生態系に影響を与える恐れがある.それはどういう考え方に基づいているかを私なりに言いますと,これはロドリックスという人の危険は予測できるかという本に書いてあるものを,私なりに理解したのですが,まずリスクというのは確率である.したがって,絶対安全なものはないんである.例えば天が落ちてくるのを憂う.「杞憂」という言葉がありますが,これは不必要な恐れを抱くことの見本のように言われています.しかし,これすら本当は絶対安全とは言えないのです.  もう一つ,大事なことは,確率ならば昔からのサイエンスであったんです.ところがこれで一番困るのは,その確率を計算する前提が,実は科学的に確かな証拠のあるものばかりではないということ.証明されていない前提を用いて確率を計算する.これが非常に危ない.つまりリスク化そのものが危ない.先ほどゼロにはできないといいましたが,これもそのロドリックスという人の本からとってきたものですが,生命保険のデータなどから,交通事故による死亡とか,そういうようなものがかなりよく調べられています.ちょっと僕には信じられないですが,これによりますとバイクに乗る死亡率は,バイクに普段乗っている人は,自分の身の回りに50人いたら毎年1人ずつ死んでいく.ちょっと多すぎるような気もするんですが,そのぐらいのリスクです.喫煙による死亡が非常に高いという統計結果はもう生命保険会社はしっかり持っているようです.あと消火活動,これには(2001年9月11日に同時多発テロで崩壊した)世界貿易センタービルは入っていないと思いますが,非常に危険な作業である.それに比べるとロデオなんか大した事ない.・u」圈璽淵奪張丱拭爾鯊腓気嫌・・ぢ杯も毎日食べる人は,アメリカにはいるらしいんですが,そういう人の危険率は,10万人に1人毎年死ぬか死なないか,そのぐらいである.先ほど申しましたように,天が落ちてくると言いましたが,落雷とか流星直撃のリスクは非常に低い.非常に低いけれどもゼロというわけではない.落雷はゼロではないということが分かる.先週ですか,ある東大の獣医学の先生から,生物統計学者と私 に対して,ちょっと狂牛病のリスク評価をしたいんで,説明を聞いてくれと言うので行ったんですが,やっぱり厚生省や農水省でこれを担当している方はリスク評価というか,リスク論自身を全く理解されていないんではないかと私は思いました.これはよく言われることですが,1996年以降は,肉骨粉は牛に与えていないという指導をやっている.これを守られていれば当然そこから先には感染ルートがないわけですから,新規の感染牛はなくなる.数千頭これにしたがっていないという自己申告はあったんで,その分は何か今隔離しているとか何かそういう状況らしいですね.想定外真相不明の感染源がどうもあるらしいと.要するに,外国から来た肉骨粉をぱっと牛にやり続けた人は何人かやっぱりいるとしか考えられない.それが一番考えやすいやつなんですが,とにかく証明されていない前提で,それが守られていれば新規感染牛は出るわけない,ということなるんです.それが破られたときには,その前提を改めなきゃいけない.これがアカウンタビリティつまり説明責任なんです.証明されてないものを使っている以上,前提が間違ってたと分かったら,改めるという作業をなければリスク評価は絶対できないわけです.いつまでもこういう前提にこだわっていると,安全だという説明と,現実に起っていることのギャップが埋まらない.そうするとますます,安全ですよという言葉は空虚に聞こえてきて,誤ったリスクの周知ということになります.これは意図的にやっているというよりは,その担当されている方々が,リスク論に対して無知なんではないかと,私はそう思います.あるお医者さんのホームページを見ますと,こういう想定をしていますね.牛に与えないはずで輸入したヨーロッパからの肉骨粉のすべてをもし牛の餌に混ぜたとしても,単純に比率から計算すると数十頭ぐらい感染牛は出るだろうと,そういうのは予防原理による予測なんです.数十頭出たとして,それが人間に対してどのぐらい危険かというと,その危険は非常に低い.特に今からは殺している牛はすべて調査してます.この全数調査というのは驚くべきことなんですね.どんな例えば製品,車であろうが何であってもいいんですが,そういうもので全数調査をやるということはなかなかないわけです.標本調査によってある程度以下にリスクを抑えたら,あとは半年以内に故障したら全部無償で取りかえますということをやるのが普通ですね.これはかなり精度が高い.危険牛の危険部位は,健康牛であっても危険部位とされている脳とか脊髄や腸の末端が危険らしいんですが,その辺は健康であってもすべて焼却している.今それをセメントに混ぜるリスクを計算してくれなんて変な話があって,セメントを危険部位にして大体10gぐらい食べるとやばいんですね.人間が感染する可能性がある.セメントそのものを食べる人はいないと僕は思うんですけども,とにかくどっちかというと無用なところのリスク評価が今横行している.もちろん感染牛に関しては,本来感染牛の肉を食べたから危ないってことはないはずなんですが,肉も含めてすべて焼却している.でも当然ながら,この間から出ている3頭の(感染した)乳牛は処分される間に,あの牛から出た牛乳をだれかが飲んでいるわけです.それの危険性があるかというとほとんどない.これは完全にゼロだという証明はなかなかできないですが,疫学的に考えてもほとんど可能性は低い.特に牛乳に混ざるということはほとんど考えられないですが,動物実験やっている例とか聞いてみますと,130! 頭 の牛に感染牛のミルクを飲ませたけど感染しなかった.130分のゼロぐらいでは,10万分の1の危険率とは,ちょっと言えないわけですね.それは仕方ないことでして,私はこれだけやれば全くゼロとはいいませんが,十分に安全だ.四重・ノ安全だと思います.そうするとやっぱり牛肉は食べるべきです.健康牛の肉骨粉は本来人間が食べても,もちろんほかの想定が正しければいいはずですが,肥料やペット飼料に回している.ほかの豚や鳥の肉骨粉は牛には利用していない.そうすると,両方許しちゃうとこれが間違ってこういってしまうルートがあり得るわけですが,これがあればそのルートはないであろう.牛肉産業を支援すべきである.この視点がリスク評価には本来は必要であると,僕は思います.つまり危険だ危険だといって排斥すると,それによって職を失う路頭に迷う,そういう人が必ず出てくる.本当にそこまで彼らが悪いことをしたのかと,いうことをやっぱり真剣に考えるべきだと思います.ところが,そういう何か四重の安全性をかいくぐって,何か感染するかもしれないというリスクに関しては敏感ですが,こういうことに関しては,なか・u「覆・杼陂C鯑・・擦覆た佑・茲・い涼罎砲老觜渋燭い任呂覆い・箸いΔ里・せ笋・舛腓辰反看曚垢襪箸海蹐任后ノ磴┐亰搬單渡辰離螢好・蓮せ笋鰐技襪任C覆い隼廚い泙后セ笋癨・甥ぢヶ月前から携帯電話をこうして使ってますが,まずこれをこうやったとき(電話 を耳に当てたとき)に,かなり強い電波が出て脳に障害を与えないという保障はありません.ありませんけど与えるという科学的根拠はない.だから皆使っているわけです.これがペースメーカーに影響を与えて,ペースメーカーを使っている人に悪影響を与える可能性は十分ある.例えばマナーボタンを利用していたとしても,それは同じです.電話が鳴ればいいだけです.もちろん満員電車の中で,ごく近辺にいるときには切りなさいと書いてありますから,切るようにしてますけど,大体満員になってから私切ってますから,そうすると急にぎゅっときて,あっ,しまったと思って切るまでの間にこれが鳴って,そのたまたまこの辺にペースメーカー持っていた人がもしいたらどうなるか,それはゼロとは言えないと僕は思います.2ヶ月前まで嫌だったら本当は持ちたくなかったんです.やっぱり便利ですので,持っているわけです.やっぱりリスクというのはその程度はあるんです.  このリスクをどうやって計算するかというのは,また危ういところでありまして,10万人に1人が感染するとか,1人が死ぬとか,そういうリスクを調べるには少なくとも10万人,多分100万人ぐらいのサンプルを集めないと調べられない.人間が無理でも,動物実験で100万匹のラットで実験するなんてことはまず行われていませんが,もっとずっと高濃度でどのぐらい毒性があるかから,薄めたらどのぐらいの毒性になるだろうという,こういう外挿というのをやるわけです.対称対数グラフで線をわっと引っ張る.これが非常に怪しいということは,だれが見てもわかることですが,ほかにやりようがないわけです.この辺は岡敏弘さんがしゃべると思いますから.そのリスクを回避するのにどれだけお金をかけるかという問題の間に,非常に大きな不均等がある.問題はそうしますと,リスクとこれからどうつき合うかなんですが,まず評価をしないといけないです.評価をするときは証明されている前提だけでは無理です.そうすると,異論の少ない前提で未来を予測するということになる.そこには,証明されているものだけを使わないというん・u刋タw)で,予防原理が当然働いている.それでそのリスクをできるだけ下げるようにしたいという意味で,リスクの管理(マネージメント)をするわけですね.そのときには,当然使っている前提や計算の方法に大きな不確実性があるということを自覚しなきゃいけない.環境影響評価法の環境庁告示では,例えば将来の影響を予測するときには,影響がどのぐらい不確実かその程度までちゃんと書きなさいと,すごいことが書いてあるんです.そういうものをちゃんとやる.それからリスク管理をやったある政策を走らせていって,途中で間違いに気がつくことがある.そのときに気がついた時点で間違いを改める.あるいは,間違っていたということを公表する.この責任が重要になる.これがアカウンタビリティ,説明責任と呼ばれる.幾らこうやってもリスクはゼロにはできないです.そうしますと,リスクの周知,つまりコミュニケーションが必要になります.いかにこういう政策を採ればどのぐらい安全だ,ああいう政策を採ればどのぐらい安全だということを,今までの専門家の意見など,どういう前提を使って,どう計算したということをできるだけ分かりやすく説明した上で,市民と・u「吏・w)合意形成は図らなければいけない.これがなければ,そのリスク管理の政策決定に加わっていないと,いつまでも不満を持ちます.だってゼロにはできていないわけですから,不満を持ってしまうわけです.ですから環境政策は,これからはやっぱり情報公開と合意形成,市民参加,これが不可欠になる.そういう時代だと思います.科学的に唯一の正しい答えが分かっているのなら,それはいらない話です.でも・サうではないんです.大体リスクはどのぐらいかといいますと,1年間に,10万人に1人ぐらいが死ぬようなリスクを拒否する.これは交通事故で死ぬ確率よりはるかに低いわけです.その人間の健康に与えるリスクだけではなくて,生態系に与えるリスクも直接評価しなきゃいけないというのは,今の人間の利益だけでは,評価できないものがある,持続可能に自然を後生に残さなきゃいけないということで,そういうことを考えようということになっているんだと私は理解してます.  評価方法ですが,私たちは絶滅リスク,つまり生物にとっては不可逆的な変化というのは,やっぱり絶滅だ.多少数が減っても,例えば漁業によって魚が減っても,禁漁をすれば元に戻るかもしれない.それは不可逆的とは必ずしも言えない.でも絶滅は不可逆的である.ですから「絶滅に至るリスクを評価する」というのが,まず真っ先に思いつくことですが,これだけが唯一のリスク評価の評価基準ではありません.ほかのこともあります.それはある意味では,政策決定者が任意に決めてもいいんだと思います.任意に決めて市民に合意形成を図る.例えばカリフォルニアのコンドルを守ろうということが目的になったら,コンドルを何10羽以下には絶対させないという基準を作ればそれでもいいんだと思います.ただ,ここにこう書いてありますが,この間,ブループラネット賞をもらったマイヤーズ博士の講演録というのを読んでみますと,これに何ドルでしたっけね,物すごい大量の予算を使うぐらいならば,ほかに守るべき環境はいっぱいあったはずだと,いうようなことを書いていました.そういうことは,単に世論に訴えるだけでは,なかなうまくいかないですね.や・u刋タw)っぱりどこを守ればどのぐらい自然が守れるということを,ある程度専門家のコメントつけた上で,できればそれはいろんな意見を併記するのはいいんでしょうけども,あるいは議論をずっとオープンな場で重ねていく.そうした上で合意形成を図っていかないと,なかなかうまくいかない.  もう一つは,大事なことは,まだよく分かってないことなわけですから,とにかくデータを地道に積み上げていかないと,例えば何か事業を起こしたいという人だけが,総ての環境影響の総ての調査をしなさいと言われても,これは無理なんです.ですから,環境省がそれをサポートできるだけの基礎的なデータベースを元々揃えていますので,それと事業者が自分でできるような調査に基づいて,合理的な評価ができるような形にしておくのが一番望ましい.こういう調査は,決して役人だけがやるものではなくて,むしろ市民が参加して広くやると,調査に加わるということが本当は望ましいであろうと思います.そういう例は幾つかありますけど,植物のレッドデータブックはどうやって作っているかといいますと,日本には野生の維管束植物が7,000種いるらしい.そのうち危ないと思われる2,000種について,個体数と減少率はをみる.この中には,実は国際自然連合が日本の絶滅危惧種に挙げようとしたヒノキとかそういうのは入ってないですね.日本のヒノキは減っているらしいと(いう人もいます).国際自然保護連合の数値基準というのがありますが,それを形式・u刋タw)的に当てはめれば松枯れで減っているアカマツぐらいが入るらしいですね.ですが,マツの調査には(アカマツは)入れてません.あんなのはレッドデータブックに入れるべきじゃないと,日本の専門家は判断して入れてないんです.それによって過去の個体数,過去の減少率を見て,それが将来の減少率で減り続けるという,先ほど言った意味では,検証されていない前提を用いまして,将来同じように減っていくという前提で,あと何年経ったらなくなるかということを評価する.そういうことであります.この調査をやるためには,2万5,000分の1地図というのは日本に4,400枚ぐらいあるらしいですが,その一つ一つの地図上に2,000種のどれが何個体ぐらいあって,どのぐらい減っているというデータを集めたんですね.これは,生態学者にはとても集められないので,分類学者のアンケート調査,つまり自分の山を歩いたときに,どのぐらいだと思うというデータをばっと集めたんです.これだけたくさんのデータを集めたというのは,世界の国際自然保護連合の専門家の会議に行ったら皆驚いてました.そんなことができるのは日本だけだと.それにぁw)苹・w)って1,400種が絶滅危惧種に指定されたということになります.このときの4,400枚の地図の調査は400人ぐらいの調査員が入っています.これは当然,分類学の大学の先生とかだけでは足りませんで,県の博物館の学芸員とか,あと高校の先生ぐらいまでいたというふうに聞いています.先ほども言いましたけども,まだ人の命の方は,とにかく死亡率を下げる,発がん率を下げるというふうに分かりやすい面があるんですが,全部を守れるかもちろんいいんですけど,そうでないと,この三つのどれが一番いいか,この二つの例えばどっ・ソがいいかと.例えば全国で数十個体しかないと言われているような絶滅危惧のランもありまして,それの数個体ある自生地がある.そこをつぶすというのはどのぐらい悪いんだ.それに対して,まだ絶滅危惧種だけど3万個体ぐらいあると言われているシデコブシですね.それの数百個体をつぶす.どっちが悪いか,どっちも悪いといえばそれまでなんですが,すべてを守ることができないとしたら,プライオリティーがどっちにあるということをどうやって評価するかというのは大きな問題です.これは後の宮本健一さん・u「寮賁腓砲覆襪鵑任垢・ご超P・・任△詈シ舛鯲・垢函の磴┐丱瓮瀬・・・・ぢ割減ってしまう可能性がある.私はそれを聞いて思わず,えっ,1割ですか,漁業じゃ半分減らしてますよ.本当にこれ悪いんですかと思わず言ってしまったんですが,もし環境汚染で1割減らすことを悪いというんであれば,漁業による半減よりどうして悪いかというロジックが必要になる.それがなければ公正な判断とは言えない.例えばわずかな個体に,雄に卵ができてしまうというような奇形ですね,それが現れてしまう.奇形が現れることがいけないというふうに評価 を決めてもいいんですが,それだけで別に自然が失われるとは限らないです.これが,本当にどのぐらい悪いんだろうかという議論を本当はしないといけない.あと魚はダイオキシンが多いなんてことをよくいいます.特に日本の近海のやつは多い.これは,もとを正せば化学肥料が原因らしいなんて話がよくあるわけですが,魚を食べてはいけないということをヨーロッパの方は言います.これは岡敏弘さんから聞いた話ですが,本当に魚は健康食品じゃなかったの.いい面と悪い面,ちゃん評価してもらうということになっているわけです.この辺は私より詳しい人は,本当はいっぱいここにいるんですが,釈迦に説法で言わせていただきますと,隣で今日しゃべられるんですか,田辺信介(愛媛大学)さんの絵とかいろいろお見せします.  内分泌撹乱物質というのは,環境ホルモンと言われてますがホルモンそのものではありません.ホルモン作用を撹乱する物質である.ホルモン自身が微量で作用するものですから,ごく微量で害をもたらす.天然に存在しない多数の化学物質は次々に作られていて,それがどんな毒性を持っているかよく分からない.しかも,なかなか分解しないものもあったり,あるいは派生物として長く残るものもありまして,海や大気の中にあまねく存在する.食物連鎖で,例えば魚自身には濃度はそんなに高くなくても,それを食べるクジラには多くなったり,それをまた,人間が食べればさらに濃縮されるという面がある.さらに恐ろしいのは,母乳でこれは感染する.つまり母乳の中に含まれている.母親の体以上にたくさん含まれている場合もあるということなんですね.  こういう予測はどうやってやるかといいますと,まず環境中にどのぐらいその濃度があるかという予測をつくります.それが生物濃縮になったのを通じて,食品中にどのぐらい貯まっているかという予測をします.こういうこと聞いていると私は驚くんですが,例えばこの予測をしているときには,例えば鶏肉の皮は食べないという前提で評価することです.私,鶏肉の皮食べてたなとか.そういうことが時々あるわけです.さっきの狂牛病じゃないですけど,フランス人なんか牛の脳を食べる.あれ感染源の脳を食べたら,これはかなり危ないと.日本人はそんなに脳を食べていないから,ほとんど感染しないかもしれないというような事態があるんですね.感染牛の脳を全部だれかが食べていたとしたら,フランスのヤコブ病の人はもっと大量にいなきゃおかしいとこあるんですね.そんな悩みを持ってましたけど,その東大の先生は.そういうような,どのぐらい環境中にいって,どのぐらい生物に濃縮されて食品に貯まって,それを人間がどう食べるか,そこを全部予測するんですね.どのぐらい濃度がたまったら,どのぐらい死亡率があるかというのを,ごく低濃度の場合に一生食べ・u刋タw)続けると,どうなるかということを推定しなければならない.さらに,ここまでは健康リスクにあったんですが,生態リスクにおいて問題になるのは,自分は生きているけど子供が作れなくなるという恐れがある.それをどう評価するかというのは,むしろ今までの健康リスクだけの実験とは違う実験をしなければいけない.ということを生態リスクの人はやっているわけです.これは実は田辺信介さんは私のいる東大海洋研の客員教授でありまして,宮崎信之さんという東大海洋研の教授と共同研究して,いわゆる環境ホルモンの研究を進めていました.その宮崎さんたちが採ったデータによりますと,これはPCBですね.PCBは海にも大気にも南極の果てまで汚染されている.放射能なら自然にも放射能ありますけど,PCBは人間がつくった物質ですから,これが南極の海にあるということは人間のせいである.ということは,それで証明されるわけです.DDTも同・カです.こういうふうに汚染があると,結構,東南アジア付近がかなり濃度が高いということが分かっています.こういう汚染はどうなっていくかというのが,これも東大の先生ですが,高橋正征・u「気鵑僚颪い討詼椶砲蓮こね梁臀朶弔噺世錣譴討泙靴董い困辰班縮未魍の・・・譴泙后イ海海妊哀蝓璽鵐薀鵐匹把世爐鵑任垢諭コつ譴鯲・譴詢・譴箸いΔ里・△襪海箸・・・蠅泙靴董い海譴任海海・蕕錣]紊・辰討・襦イ海隆屬領・譴・ぢ臑吏・屋旭年かかる.そうすると今海面を汚染したものが,2000年後にもう一度海面にわき上がる,なんてことが言われています.生物の濃縮というのは,プランクトンで濃縮されたものが大体100万倍ぐらい濃度が上がっていくようなものが多いわけですね.それで母子感染ですが,これがあるスジイルカのPCBの濃度を雄と雌別々の検体でサンプルで追ったものですが,雄は年齢とともに,どんどん濃度が蓄積されているというのは分かります.雌はこの辺で,10歳ぐらいでがくんと落ちるんですね.それから低濃度になります.なぜかというと,子供に全部濃度をあずけちゃいます.さらにクジラなんかを食べると,クジラは分解酵 素を欠いていて濃度が非常に貯まりやすい,ということが言われているんだそうです.ですから,例えばイルカが大量に座礁しているとかなると,すぐ海洋汚染かなとかいうふうな問題になるわけです.全部が全部もちろんそういうわけではないかも知れませんが,シーア・コルボーンの本なんかにもあるように,そういう例も予兆としてはあると.  あともう一つは,これは何かの巻き貝だと思いますが,雌のはずなのにここに疑似ペニスができるというのがあるんだそうです.これらの原因がトリブチルスズだというのが,割とこういう異常現象が発見されたから早期に分かった.トリブチルスズTBTは,船底の塗料に使ってフジツボなんかを付くのを防ぐ.こういう疑似ペニスができた雌は不妊化する.子供を産めなくなります.ほかのホルモン撹乱物質は,大体,雌化する自然とかいうように,雄が雌化する場合が多いです.そうしますと,実は個体群全体にとっては必ずしもマイナスの影響は出にくいわけですね.雌がいれば子供をつくりますから.雌が雄化する.しかも例えばその海域で90%,100%が雄化しているなんていうデータがどんどん出てきますと,子供を産むやつがいなくなるわけです.これは非常に大きな影響だと.しかも,ある1種だけ影響なんじゃなくて巻き貝すべて,それ以外の貝類やほかのものにも,結構影響があるというふうに言われまして,これを規制したわけです.日本でも規制しまして,これが,漁獲量が1985年ぐらいからは減ってきたんですね.そのときに産卵量とぁw)y・w)うのは黒いバーですが,年々どんどん減っている.この辺から復活しているじゃないかという話がありますけど,この辺から大体TBTを規制し始めたんです.この方(この図の著者)は,その規制の影響で増えたように言ったんではない.今でもほとんど危機的な状況であると言ってますが,全く別の事を言っている人がいます.規制は成功したんだと,これ何と書いてあるかというと,人はめったに自分の成功を悔いないものである.成功というのはTBTを規制するアメリカの科学審査会の科学研究者でありまして,規制するべきだと.規制して海の中の濃度が減った.巻き貝なんかの濃度も減ったと.それは成功なわけですが,それを悔いているんですね.なぜ悔いているかというと,ここに書いてあるように,あまりにも採算が採れなかった.船底塗料を止めたわけですから燃費が悪くなった.それの損失は,年7,000億円である.巻き貝にそれだけの価値はあるだろうかと,いうのがこの人の言い分です.そういう規制をした法律は,近視眼的でばかげているともう言いきっているわけであります.そういうコストとリスクと経済のことを全部考えないといけない.私はぁw)・・w)かげているとは思いません.巻き貝すべてに影響があるとすれば,それはかなりの影響ではないかと思います.環境影響評価をやる場合の限界というのがいろいろありまして,先ほども,ちらちらと言ってますけど,例えばゴルフ場を作ると言ったら,事業予定者はゴルフ場しか調べないですね.万博だって万博予定地しか調べない.でも回りとの連絡があって,連続性があって,初めて生態系は成り立つ.その影響は分からないわけです.もっと大きな問題は,規定上これを1年しか調べない.例えばクマなんていうのは,ドングリがいっぱいなっているとき,ブナの実がいっぱいなっているときには,たくさん子供を作りますし,そうでないときには,子供ほとんど作らない.どっちを調べるかによってこのクマは,ほっておいてももう絶滅だと見ちゃう場合もあるし,こんなにたくさん子供を作るんなら,少しぐらいつぶしたって大丈夫だという結論になっちゃうこともある.1年だけを調べてそれが毎年続くと思ってはいけないわけです.私はこれを阪神タイガース問題と言ってますが,阪・_が優勝した年だけを見れば阪神ファンは無限に増えるだろうと思いますし,此w)・世韻鮓・譴个匹Δ靴萄綽瀬侫.鵑い襪鵑世蹐Δ・函イ海海呂舛腓Δ漂綽世涼聾気任靴燭諭ぜ採蕕靴泙后セ廚Δ海箸發△蠅泙垢・い任眦・戮僕ゾ,垢襪・蕁ぐ貳屬いだ垢蠑紊・衒・鬚垢襪里・眞里譴覆ぁ・・w)w) もう一つは,さっき定常状態を仮定していると言いましたけど,生態系というのは遷移をしている.これをちゃんと評価しなきゃ,そのために遷移のスピードを評価しなきゃいけない.遷移の途中にある生き物というのはなくなるように見えるけども,実はそうではない.それは自然撹乱がある.撹乱によって元に戻る.その両方がつり合って多様性が用意されている.これはアメリカの生態学会の報告書にも載ってまして,こういうことをちゃんと評価しなきゃいけない.これを忘れるのを私は,サザエさん症候群といいます.これはもう50年前ぐらいですかね,最初から全然年をとってないですね.普通,人間というのは,年をとって死んで新しいのが生まれて,それで維持されている.それが分かってないんです.だから遷移を全部止めるような保護管理をするなんてことがよく行われるわけです.これは本当の自然保護とは言えないかも知れない.  そろそろまとめに入りますが,先ほど申しましたように,まず何か管理やプロジェクトをやるときには目的を定めなきゃいけない.ところが,その目的は,必ずしも科学的に唯一の目的が定まるとは限りません.学者の間で異論があることもあるし,社会的ないろんな見方をする場合も出てきます.でも,やっぱり目的がなかったらいけません.何か目的を定めないと逆に言えば検証できない.ある目的,例えばシカを守るならシカを守るでも良いわけですが,そういう目的にしたがって,そのためにはどういう政策を実行している.そうすると,将来はどうなっていくはずだという目標を立てる.この目標を逆に言うと反証可能でなきゃいけない.目標が必ず実行できるというわけではありませんが,最低こんな悪いことにはならないというようなことを,あらかじめ言っておく必要があります.それが不確実性を考慮した目標の設定ということです.そのときにまだ自分には全部分かっていない前提で物を言っているということと,事態は移り行くということをちゃんと自覚しなければいけない.この諸行無常の法に対応するのに,実は順応性と呼ばれてまして,例えば,北海道のシカを毎・u刋タw)年3万頭ずつ採り続けるとどうなるか.一応そういう設定をするわけですが,採る数は個体数のモニタリングにより変えていくわけです.変えていくことを前提にして,計画を立てなければ失敗する確率は非常に増えます.そういうふうに臨機応変に政策を調整することを順応性といいます.そういうのを考えるときに,やっぱりこれは僕個人の意見ですけど,計画はどのぐらいの敵か分からなくても,悔いの残らない政策を立てなければいけない.つまりこういう大がかりなことをやって,結局失敗して何にも残らなかったというのは,やっぱり良くないですね.これをやったがために,例えば人は育ったとか,何か地域のつながりができたと.何かそういうレベルの見返りといいますか,そういうものがなければいけない.一番怖いのは逆ですね.成功したらいいんだけど,失敗したときには,例えば対立だけが残るとかですね.今の愛知万博なんてもろにそうなんですが,ああいうのは悔いのある政策です.そういうのはやっぱり避けなければいけない.目的に任意性がある以上,先ほども言いましたけど,それを作る段階では,必ず合意形成をしないと,いつまでも不満をもつ人が鼻w)囮・w)満を言い続けるということになります.これを避けるためには,絶対に情報開示と合意結成がいるんだと.これは,むしろ不確実の中で物事をうまくやっていくために,必要なことなんだと私は思います.以上です. 質問 ○内藤和明  生態的なリスクというのが数字で計算して出るときに,これを実際に例えばさっきのトリブチルスズのことなんかそうなんですけど,それがリスクがあることが分かって政策として採用するかしないか,これがどれくらい意味があるのかないのかという判断は,つまり実際のリスクの値そのものとをうまく積み重ねて,ある政策を採用するかしないかと決めるときの方法というのは,どんなふうに考えればいいんでしょうか. ○松田裕之  現状は,例えば北海道のエゾシカ管理とかいいますと,情報公開,必要で必要だといくら言っても,やっぱりこれは多分,北海道も怖いんでしょうね.一番,自分たちでも結論が見えてない段階の議論は内部でやりますね.大体方針が決まったらいろんな意見の人を入れてオープンな場で,あるいはメーリングリストとかで,がんがんやり合う.というふうになりますけど,多分最初からオープンにはなかなかできないというふうになってますけど,僕は,これはまだかなりいい方だと思います.やっぱり一番悪いのは,最後まで隠してやっちゃう.そうすると当然批判がわっと来ますね.そのときにかえって収拾がつかなくなるという例があります.例えばトリブチルスズだとかいったときに,あの場合にはリスクだけじゃなくて,それと採算性とか経済的なことも考慮しろといいますけど,例えば日本でそういうことをやっていることは,オープンな場でほとんどないと思います.環境影響評価法にすれば事業採算性と負荷を両方測れと.実は愛知万博のときに私言ったんですが,結局考慮されなかった.そうすると何が起るかというと,最後やっぱり事業者側が間違っていると外か・u「蘚椶蕕譴董な欷鄰賃里慮世δ未蝓い匹鵑匹鷸・箸鮟名・靴燭鵑任垢諭イ△貘進・了酸`瓦・佑┐討い覆ぁイ△里泙泙笋辰燭蕁だ廼發鬚爐世謀蠧・垢觧・箸魎超b賃里・╂茲靴討笋辰燭箸いΔ垢瓦の磴砲覆襪鵑犬磴覆い・隼笋牢轅セ靴討い泙后・・w)w) それともう一つは,とにかく自然保護団体の方の言い分ですけど,別に自然保護団体が万博をやっているわけではありません.どっちでもいいわけですね.去年の時点で万博を中止に追い込もうと思えば幾らでもできたわけです.でもそれしなかった一つの理由は,いい万博をやるんなら,後でちゃんと予算を出して海上(かいしょ)の森を守ってくれればいい.つまり国営公園という枠組みを作ってやればいい.それはできるかもしれませんけど,実はその段階で深刻な対立が地元の中で起きてしまって,つまり,その自然を愛して守ろうという人々が,修復不可能なぐらいけんかをしてしまっている.これは白神の世界遺産でも,ひょっとしたらあるかも知れませんけども,自然を守ろうと思っている人々の間で,そんなに大きなけんかになって何の意味があるんだと,私なんか逆に思ってしまうわけですね.やっぱりそういう一致点があれば,そういう人の間で最低限の信頼関係を持って,意見が違うのは当たり前なんですが,やるような枠組みができないようでは,僕は失敗だったんじゃないかなと思っています. ○参加者1  仕事上,リスク関係で,例えば品物の裏に,その食品にはそういうものが含まれてます.一部に何を含むとか,それから例えばしょうゆですとね,今,厚生労働省の方で,5品目危険なアレルギー食品があって,そのうちの小麦を含んでいたら絶対悪いとかあるんですけど,それがしょうゆの場合だったらだれも小麦を使っているって分かるはずだけど,絶対表示を「小麦を含む」とかしなさいとなっているんです.ああいうのってどこでだれが決めているか.なんか不思議でね.あれをインターネットとかで調べると,すごいだっと出てきちゃって,全然わけわからなくなっちゃうし. ○松田裕之  一応いつからですかね.ごく最近からか.そういう答申を出したらパブリックコメントほとんど義務づけられてますから,特に変だとか意見を言う機会が当然あるはずなんです. ○参加者1  知らないうちに決まってて,表示も絶対変えなさいとなるんで,それをするとなると,今まで印刷でできちゃった石油系のプラスチックの袋が膨大な数で残るわけです.それを処分しろとは,どれだけのまたリスクが.これを考えると,一体,お役所は何を考えているんだろうかなと思うときがあるんですけども,誰が考えているのか. ○松田裕之  ほとんどこれは学校の校則を作るようなレベルで,ああいうのは,やっぱり人を見て血が通うように運用していかないと本当はいけないんですけど,なかなかそうできないんですよね.そうするといろんな問題が起きてしまうし,でも多分そういう不満を述べる方に対して,もっと規制しろとか,わんわん叫ぶ方もいっぱいいらっしゃると思うんです.その辺のかじ取りをするというのは,結構大事なとこで,両方いてくれないと実はうまくいかないというのが,鳥獣保護法で良く言われますね.つまり,例えばシカやカモシカがなんか被害をもたらす.そうしたら一方で被害者というのは,農家とか林家で,一方で自然保護団体がいてくれないと,やっぱりかなり極端に走ってしまう.その意味で困っているのが漁業ですね.例えばカニは乱獲で,だからけしからんといってくれる自然保護団体はあまりいないんです.そうすると,ああじゃ,採れるだけとっていいのかなと思ってしまう可能性があります.学者だけが何か言ったって,これはなかなか力が弱い.ある程度両方のバランスがあれば,それと本当にやる気のある専門家集団がその役所の背後についていれば,僕は何とかなると.・u刋タw)w)w)○参加者2  私,仕事の関係で河川の土木関係の仕事をちょっとやっているんですけども,先ほど表の中で,オートバイに乗る人間が50人いたら1人死ぬ確率があるということなど,洪水で死ぬ確率というのは,非常に低い数字で出ておったかと思うんですけども. ○松田裕之  よくごらんになってますね. ○参加者2  私その今,業者の方の立場で,どの川をどうするかと決めるわけじゃないんですけども,その中で当然自然保護と防災工事ということで,もめることは話聞くんですけども,その場合,洪水による死者をもう絶対に出さないと.あくまでもゼロにするんだというのが大前提で動いてて,それにもしできたら生き物を守ろうというような話で事が進んでいるようには,私,自分たちのいる業界を見ていて思うんですけども,洪水による実際の損害の評価ですね.それと,それによって失われる自然環境なりなんなりの対比ですね.それをほとんどされてないように思うんですけども,それでも,そういうことを何かされたというようなご経験がおありでしたら教えていきたいですけど. ○松田裕之  釈迦に説法をしたいんですけど,今までは,河川のあれは要するに治水であって,その次に利水がある.その次に生態系のことを考えようなことで,長野県は脱ダム宣言と言ったり,国土交通省もそう言ったりして,変わってきつつありますよね.そのときに死者がゼロにしなきゃいけないという話があるんですか. ○参加者2  結局,100年に1回とか200年に1回と数字を出して,その洪水に対する備えということで作るわけですけども. ○松田裕之  500年に1回は,与えられないとか,それがこの間,愛知(名古屋)でばっと起ったとかありますね. ○参加者2  その場は500年に1回ですから,500年に1回,もし次の日にあれば,さらにそれ以上をやっていくわけですよね.際限ないわけですよ.だから500年に1回だからもうこれはあきらめてくれということは,絶対だれも言わないわけですよね. ○松田裕之  それは僕なら言っちゃいますね. ○参加者2  仮に死者が出なくて,この間の名古屋のときもほとんど死者が出なかったというんですけども,死者がでなくても,今度あれを耐えられるようにということで,また変えていくわけですね.そうすると,とにかく無限に続くわけですね.もう国中コンクリートで固めても,恐らく追いつかないですね.そうするとどっかで,このリスクの話を入れてあきらめてくださいというラインを決めないことには,永遠に予算がかかるはずなんですね.それをどこかで決めるという話は全然出てこないというのは,私,不思議なんです. ○松田裕之  いや,それは出さなきゃいけないですね.1月29日に,私,ダム水源地センターに呼ばれて名古屋をしゃべるですけどね.そういう話も紹介しょうか.ゼロにできないということは,やっぱり言わないと本当はいけないです.これは,あらゆるところでそうだと思います.