一審判決理由,原告の主張,関連法規などはこちらを参照

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誤りをお詫びします(2003125日現在)

20011015

「奄美自然の権利訴訟」控訴審意見書

生物多様性保全の生態学的根拠について

松田裕之(東京大学海洋研究所 助教授 数理生態学)

 

要旨:原判決が認めた現在の法体系の問題点は二つある。@個人的利益の救済を趣旨とする行政事件訴訟法では、自然の公共的価値を損なうような開発行為に対して誰も異議申立てをすることができないことがある。A自然が人間のために存在するとの考え方をこのまま押し進めてよいのかどうか。第一の問題点が避けて通れない問題であることは、生態学的にも明らかであると考えられる。第二の問題点については、生態学を越えた問題である。そして、今回争われている住用村のゴルフ場予定地の開発許可処分は、奄美の貴重な自然を損なう点で、第一の問題に該当する。司法が奄美の自然のかけがえのない公共的価値を守るという使命を果たして下さることを希望する。

 

第1章  当該森林保全の生態学的意義

1  意見書提出の動機

 自然が人類にもたらす公共的利益は、現行の法体系によってどこまで守ることができるのだろうか。本裁判は、そのこと自身が議論されている点で、環境問題史上、重要な意義を持つと考えられる。本件は、鹿児島県奄美大島の龍郷町(たつごうちょう)(市理原)と住用村(すみようそん)(市崎)にある民有林に、鹿児島市に本店を置く二つの事業者がゴルフ場を作る計画があり、それらの林地開発処分を森林法に基づいて鹿児島県が許可したことに対して、島内で自然観察活動を行う島内住民と自然保護団体が処分の無効確認及び取消を請求した事件である。その後、龍郷町のゴルフ場計画は事業者が1998年2月に開発行為の廃止届を出し、県に受理された。原判決では、この時点で当該許可処分の効力が失われたと見なした。住用村の計画は、まだ着工されていないものの、一審で原告側の処分取消し請求が却下され、現在控訴審で係争中である。

 原判決は、行政事件訴訟法に基づいて原告らの原告適格を否定したものの、第四「終わりに」において、「原告らの提起した『自然の権利』」という観念が、「個人的利益の救済を念頭に置いた従来の現行法の枠組みのままで今後もよいのかどうかという極めて困難で、かつ、避けては通れない問題を我々に提起したということができる」と述べた。

 原判決の判決理由の中に、裁判官が現行法の範囲で自然保護の法的根拠を求めようと真摯に努めた苦悩の跡を読み取ることができる。原判決は、行政と国民が生物多様性の保全に努める責務があることを明らかにした。その上で、環境問題の公共性と個人的利益の救済を想定した法体系の矛盾を認めた。本控訴審は、この矛盾をどう解決するかに答える責務があると思われる。

 本意見書を執筆するにあたり、多くの方からの情報、助言と批判を参考にした。また、原告及び原告弁護団には本裁判の資料と背景を詳しく説明していただいた。この場を借りて感謝する。ただし、文責はあくまで私個人にある。

 

2  本件は乱訴ではない

 原判決は、原告らが主張する「自然の権利」に理解を示した。にもかかわらず、「自然に影響を与える行政処分に対して、当該行政処分の根拠、法規の如何に関わらず、『自然享有権』を根拠として『自然の権利』を代弁する市民や環境NGOが当然に原告適格を有するという解釈をとることは、行政事件訴訟法で認められていない客観訴訟(私人の個人的利益を離れた政策の違憲、違法を主張する訴訟)を肯定したのと実質的に同じ結果になるのであって、現行法制と適合せず、相当でない」として、原告適格を否定した。

 原告側は控訴理由の中で、「抗告訴訟の原告適格概念は、その機能をより合理的なものにするために設けられた政策的実際的な装置であり、無益な訴訟をスクリーンして裁判所及び被告の負担を軽減する機能を有する訴訟法上の概念である」と述べている。日本哺乳類学会は1993年、「アマミノクロウサギの生息地を破壊するゴルフ場と林道計画の中止に関する要望書」を大会決議している(以下「学会決議」)。原告らの訴えは決して無益な訴訟ではなく、逆に、有益な警鐘を司法の場で問うことができた唯一の訴訟であった。この裁判無くして、当該森林保護の生態学的意義を見据え、地権者と行政の施策を吟味することはできなかっただろう。そして、原判決は、原告適格を否定したにもかかわらず門前払いとせず、乱訴による裁判所の負担を軽減する機能を自ら放棄し、原告らの問いかけに踏みこんだ判決理由を述べた。

 

3  自然の価値の公共性と行政事件訴訟法の矛盾

 原判決が認めた「検討すべき重要な課題」は、実は二つに分けられる。原判決第四には、本稿の冒頭に引用した問題提起に先立ち、「個別 の動産、不動産に対する近代所有権が、それらの総体としての自然そのものまでを支配し得るといえるのかどうか」という第一の問題と、「自然が人間のために存在するとの考え方をこのまま押し進めてよいのかどうか」という第二の問題を掲げ、これら両者について、原判決は、「深刻な環境破壊が進行している現今において、国民の英知を集めて改めて検討すべき重要な課題というべきである」と述べた。

 後に述べるように、原告は、「平成七年第一号行政処分無効確認及び取消請求事件・          事実整理・原告案(平成一二年一月二四日)」(以下、「原告の主張」)第六の三の1の(一)において、国際的な環境法規は、だれの利益のために自然を保護するのかという視点から見て、「現代世代の人類の利益のための自然保護」、「将来世代を含めた人類の利益のための自然保護」、「自然それ自体に内在的価値を認めた上での自然保護」という三つの段階を経たと述べている。これらに応じて、自然の価値を現代及び将来の人類が享ける価値と内在的価値に分けて考えることができる。上に示した原判決の第二の問題とは、この内在的価値に係るものと考えられる。

 生態学とは「生物の生活に関する科学」(岩波『生物学辞典(第四版)』)であり、生態系や個体群の成り立ち、消長と絶滅の仕組み、生き方の進化的意義などを研究する科学である。生物の生存や繁殖にとっての価値を議論することはできるが、人間の価値観を直接議論するものではない。したがって、内在的価値はもちろん、人類にとっての利益についても、生態学それ自身が考察することではない。生態学にできることは、自然の価値、自然と人間の関係が持つ特徴について考察することである。

 自然の価値には、基底性(人間の生活や観念にとって欠かせないこと)、公共性(独り占めにできないこと)、連続性(細切れにできず、一部を使うと全体の状態と価値が変わること)、固有性(唯一無二で、かけがえのないこと)があると考えられる自然物そのものを所有者が自由に処分する近代所有権を認めることは、深刻な環境破壊に歯止めをかけることができないことにより、いわゆる「外部不経済」をもたらす。外部不経済とは、「ある経済主体の行為が、市場を通じることなく、他の経済主体の生産や効用に負の影響を与えること」(岡 1999参照)である。これらは、第一の問題に係ることであり、第二の問題、すなわち、「自然が人間のために存在するとの考え方をこのまま押し進めてよいのかどうか」という問題を考えなくても、この問題は成立する。したがって、原判決で重要な課題と認めた先の二つの問題は、互いに別のことである。ただし、原判決がこれら二つの問題をどこまで区別して意識していたか否かは不明である。

 基底性と公共性と連続性と固有性を持つ自然の恵みを享ける権利と、個人的利益の救済を念頭において客観訴訟を否定した行政事件訴訟法の矛盾を法的にどう解決するかは、生態学者の役割ではない。この段落と次の段落で、門外漢である一市民としての意見を述べさせていただければ、所有権のような伝統的な権利を有する者、そして、その権利を侵害される者のみが行政訴訟を提起できると言うことには、問題がある。個人的利益を損なうものではないが、公共性が高く、人間社会にとって欠かせない価値を守るための訴訟を、ある程度認めるべきである。たとえば、(1)客観訴訟を否定する法的根拠が乱訴の防止にあることを確認し、(2)裁判官が乱訴に当たらないと判断した場合には、行政事件訴訟法第三六条等の規定にもかかわらず、例外的にある要件を満たすものについては原告適格を認めることができるとし、(3)乱訴でないと判断するに足る要件及び原告適格の要件を具体的に明記すれば、この問題に実効的かつ整合性を持つた答えを見出せるかもしれない。

 法律的に見て、それが有効かどうかは定かではない。いずれにしても、何らかの方法で、原判決が指摘した法的に未整備な状態を解決するとともに、「個人的利益の救済を念頭に置いた従来の現行法の枠組み」の中で、「避けて通れない問題」に答えるべきである。原告は、上記の矛盾の反映として、あくまで公共的利益を持つた当該自然の価値を守るよう要求しながら、原告適格を巡っては原告個人の当該自然との個別的な係りを根拠とすることを強いられている。裁判は形式的な法解釈によって成り立つものではなく、生きた裁判官の真摯な裁きに委ねられる。乱訴を避けつつ、真に重要な案件を取り上げる法体系を作ることは、決して困難なことではないだろう。自然の公共的価値を大きく侵害するような行政行為に対し、その取り消しを求める際に原告となるべき者が満たすべき現実的な要件を、本控訴審が示して下さることを期待する

 これは、必ずしも本訴訟のような形で当該自然と係りのある人間の原告適格を、今後も無条件で認めよという意味ではない。むしろ、事件が持っている生態学的問題点と、原告と奄美の自然との係りを吟味することが、生態学者の役割と考える。

 原判決では、「林地開発許可制度の概要」について、以下のように説明している。許可基準について規定する森林法十条の二の第2項によると、都道府県知事は、「次の各号のいずれにも該当しないと認めるときは、これを許可しなければならない」としているが、原判決では、「各号いずれかに該当すると認められる場合には許可しない趣旨と解される」とした。どんな場合に許可しないかという中に、「当該開発をする森林の現に存する環境の保全の機能からみて、当該開発行為により当該森林の周辺の地域における環境を著しく悪化させるおそれがあること」(同項三号)が挙げられている。

 原判決は、内外の関連法規を吟味した。国際法規範では、森林原則声明が「森林資源及び林地は現在及び将来の人々の社会的、経済的、生態的、文化的、精神的なニーズを満たすために持続的に経営されるべき」であり、これらのニーズに「余暇、野生生物の生息地、景観の多様性」といった森林生産物及びサービス(後述)が対象となっていることに触れている。これらの国際法規範を踏まえて1996年に林野庁が改訂した「森林資源に関する基本計画」では、「野生生物の生態を観察することのできる森林、四季折々の自然の美しさを享受できる森林」など、「人工林、天然林を問わず、様々なニーズに適応した多様な森林を確保し、適切に整備することが必要」とされた。その上で、原判決は、「今や法的においても自然及び野生動植物等の自然物の価値は承認されており、かつ、人間の自然に対する保護義務も、具体的な内容はともかく、一般的抽象的責務としては法的規範となっていると解することができる」ことを認めた。今回問題となった森林法と森林基本計画も、この責務を踏まえていると考えられ、その「一般的抽象的責務」の範囲に今回問題となった野生生物の保護が含まれていることも認められている。

 こうして、原判決は、人間の自然に対する保護義務と個人的利益の救済を想定した法体系の矛盾に行き当たり、それを「問題点」として認めた。原告適格は法律上の個人的利益に基づいて判断されるが、守るべき自然の価値は公共的なものであり、かつ誰でも原告になれるような客観訴訟は否定されている。したがって、自然の価値の場合は守るべき対象と、訴えるべき有資格者の条件が、必ずしも一致しない

 一般論として矛盾が存在することを認めながら、本件がその例かどうかを吟味する前に、すなわち、当該林地の開発許可処分について被告である行政が「自然に対する保護義務」を怠ったかどうかを明確に判断する前に、原判決は原告適格の問題に議論を移した。つまり、「自然の価値を侵害する人間の行動に対して、市民や環境NGOに自然の価値の代弁者として法的な防衛活動を行う地位があるとして訴訟上の当事者適格が一般に肯定されると解すること」は困難であるとした。

 はたして、本件で問題となった林地開発許可処分が、当時の森林法と関連法規に照らして妥当だろうか?一般的な可能性が問題ではなく、現実に誤った許可処分が下され、それに異議を唱えることができない事態が発生しているかどうかを問うことが、本章の主題である。

 

4  住用村ゴルフ場予定地などの生物多様性保全の意義

 地球規模で生物多様性が急激に低下している現在、全ての地域で生物多様性の低下を防ぐことはできない。したがって、どの地域が特に重要であるか、優先順位を決めるべきである。これは、国際的な共通認識となりつつある(たとえばMyersほか 2000)。

 南西諸島は、その特異な湿潤亜熱帯気候と複雑な古地理学的履歴からきわめて多様性・独自性の高い生物相を育み、世界的にも野生生物の保全上重要な地域とみなされている(WWF International 2000)。なかでも、奄美諸島と沖縄諸島には、アマミノクロウサギを始めとして、周辺地域に近縁の分類群がまったくいない哺乳類、爬虫類および両生類が多く、分類学的、進化学的、生態学的、古地理学的にきわめて高い価値が認められている (Motokawa 2000Ota 1998, 2000)。さらにこれまでひとまとめにして扱われることの多かった奄美諸島と沖縄諸島の間にも、多くの陸生脊椎動物で少なからず形態的、遺伝的な差異が検出され、その結果、奄美諸島の動物相の独自性は、従来認識されてきたよりもさらに高いものであることが、近年明らかになりつつある (Ota 2000Kaneko 2001)

 残念ながら、奄美大島は非常に狭い地域が国有の原生林として保護されているだけで、他の大半の地域では、多くの固有種や希少種が生息・生育しているにもかかわらず、公共事業や森林伐採など、さまざまな開発行為が行われてきた(Sugimura 1988)。科学的な調査によって、奄美大島の多くの希少鳥獣の生息数が減っていることが明らかにされている(Sugimura 1988Sugimuraほか 2000)。さらに、外来獣マングースの分布拡大と生息数の大幅増加が、奄美の希少鳥獣の減少に追い打ちをかけている。特に、ルリカケスとアカヒゲ(ともに天然記念物かつ絶滅危惧II類)に対する影響が懸念される(山田ほか 1999)。マングースは名瀬市周辺から徐々に分布域を拡大しており、現在、マングースの脅威から逃れ、かつ希少種及び固有種の生息地域として重要であるのは、奄美大島の南部に限られつつある。特に、国道58号線の南側、嘉徳から市にかけての地域(以下、「予定地周辺地域」と呼ぶ)は、林道網の密度が低く、比較的広い面積の壮齢林が残され、奄美大島の貴重な生物相を守るうえで重要と考えられる。

 また、予定地周辺地域ではアマミノクロウサギ生息密度が高いことが確認されている(Sugimuraほか 2000)。本種は、かつて連続していただろう本島内の生息地が三つに分断され、移動を妨げられていると見られる(Yamadaほか 2000)。杉村・山田(1997)によると、移入種が増えるとアマミノクロウサギの絶滅の恐れが飛躍的に増えるという。すでに住用川流域などはマングースが高密度に生息してしまった。まだマングースが進出していない予定地周辺地域の個体群は、アマミノクロウサギを保全する上で、最も重要な拠点である。現在、環境省は奄美大島のマングースの駆除事業を行い、2000年には島内広域に箱ワナをし掛け、約3800頭のマングースを捕獲した。しかし、一部の民有地には箱ワナをしかけられず、駆除事業の成否は予断を許さない。

 原判決理由によれば、「岩崎産業に対する本件処分の審査のための被告による現地調査の際には糞も巣穴も見つからなかったと報道されている」。その後、住用村教育委員会等の調査、事業者が依頼した調査においてもアマミノクロウサギの糞が多数発見されている。鹿児島県環境技術協会(1994)『住用村市崎アマミノクロウサギ生息分布調査報告書』(以下「調査報告書」)によると、本件で問題となった住用村ゴルフ場予定地(以下「予定地」)とその周辺でアマミノクロウサギ、アマミヤマシギ、カラスバト、オーストンオオアカゲラ、ルリカケスなどが確認されている。この調査は、1993年の春夏秋冬4度にわたって行われたが、予定地周辺から春から順に52431537箇所の(ランク1と2に該当する比較的新しい)糞塊が発見され、ウサギの生息が確認されている。開発許可処分を下す前の調査で、アマミノクロウサギの糞などが発見されなかったとすれば、許可処分の妥当性そのものを見直す根拠になるとも考えられる

 原判決では重視していないが、予定地周辺から絶滅危惧植物が多種確認されている(表1)。171haの計画地だけで、環境庁植物レッドデータブック(以下「植物RDB」)に載っている絶滅危惧Ib類が1種、II類が1種確認され、周辺計10kmほどの調査経路にIa類が2種、Ib類が4種、II類が3種確認されている(調査報告書54頁)。これは本土のホットスポット(絶滅危惧種が多数生育・生息する地域)として保全上問題となった福井県敦賀市中池見、愛知県瀬戸市の通称海上(かいしょ)の森と比べても引けを取らない(これら地域の情報は、松田2000161頁と138頁を参照)。奄美では、照葉樹林や住用川の渓流植生が注目されるが、海岸にも絶滅危惧種が少なくない。オキナワマツバボタンやマルバハタケムシロは、そのような絶滅危惧種の代表的存在であり、後者は砂浜と風衝地の境界の微妙な環境に生育し、丈が非常に低く、競争的な種が進入する場所でも、植生の少ない砂浜でも存続できないという(九州大学矢原徹一教授の私信より)。本種は「島内に1,2箇所程度確認されているにすぎず(横川、未発表)、個体数もごくわずか」なのに対し、計画地では「やや大きな群落状に発達して」いるという(調査報告書73頁)。

 

1 奄美大島住用村ゴルフ場予定地周辺地域に生育する植物RDB種(鹿児島県環境技術協会1994より)。RDBは絶滅の恐れの高い順にIaIbII類と表す(環境庁2000)。生育地域数(「地域」は、国土地理院の25000分の1地図1枚分、約10km四方)、個体数は植物RDBにより生育が確認された地域だけの集計で、過小推定。位置の欄の「内・隣・*・外」は、それぞれ計画地内、その縁辺、海と計画地に挟まれた調査報告書56頁の図の矢印の地域、2km以上離れた周辺調査地で生育が確認されたことを表す。生育地数と個体数が「不明」とは、個体数が既知と報告された地域が全く無かったことを表す。

種名

科名

RDB

生育地域数

個体数

位置

オキナワマツバボタン

スベリヒユ科

Ia

1

数個体

ツキヌキオトギリ

オトギリソウ科

Ia

7

数十

オオタニワタリ

チャセンシダ科

Ib

11

数百

アツイタ

ツルキジノオ科

Ib

11

数百

アマミアオネカズラ

ウラボシ科

Ib

不明

不明

マルバハタケムシロ

キキョウ科

Ib

不明

不明

内・隣

イソノギク

キク科

Ib

不明

不明

*・外

カクチョウラン

ラン科

Ib

9

数百

内・外・隣

マツバラン

マツバラン科

II

103

数万

ケラマツツジ

ツツジ科

II

6

数千

内・外

イソマツ

イソマツ科

II

7

数千

*・隣・外

オキナワギク

キク科

II

3

数千

*・隣・外

 

 本島の海岸線の多くはすでに開発されている。予定地は保全すべき残された貴重な自然である。特に問題なのは、海とゴルフ場計画地に挟まれた地域(調査報告書56頁の図の矢印で示した地域)である。ここにはIa類のオキナワマツバボタン、Ib類のイソノギク、マルバハタケムシロ、II類のオキナワギクが確認されている。調査報告書73頁にはオキナワマツバボタンなどについて「生育地の環境条件に変化を与えない配慮が必要」と結論付けているが、ゴルフ場建設によってこの狭い地域を孤立させてしまうと、保全することはきわめて困難であろう。

 また、計画地内外に広く分布するカクチョウランは、「山草業者による乱獲で減少したとされる」が、「奄美大島においては生育地及び個体数とも比較的多く」、「少なくとも奄美大島においては緊急に保護を必要とする種ではないと考えられる」(調査報告書74頁)としている。その後の全国調査を集計した植物RDBによれば、10年間で99%減少した地域が4箇所、90%以上減少した「地域」(国土地理院の25000分の1地図1枚分、約10km四方)が2箇所、漸減した地域が6箇所と報告されている(環境庁2000410頁)。奄美大島の情報は未集計だが、奄美大島でも沖縄と同様の減少傾向にあると考えられる。これほど急激な減少の場合、個体数が多くても数十年で絶滅する恐れがあり、キキョウなどの広域分布種も植物RDBに載っている。むしろ、減少率と生育地域の数が問題である。周辺地域を含めて手付かずの生育地の一部にゴルフ場を作って消失させ、乱獲の機会を高め、一部周辺地域の潮風の影響を強めるような開発は、絶滅を顕著に早める恐れがある。

 また、調査報告書によると、表1に載せていない多数の奄美大島固有種、奄美大島が分布の北限または南限にあたる植物の生育が計画地及び周辺から多種確認されている。島嶼地域に固有種や希少種が多いのは当然だが、だからこそ島嶼地域の自然を守る必要がある。植物RDBの基礎調査からも、奄美大島が日本有数の希少種の宝庫であることが確かめられている。環境省生物多様性センターが「植物RDB種公開種一覧」のホーム頁(http://www.biodic.go.jp/rdb/rdb_f.html)上で分布情報を公開している絶滅の恐れのある408種・亜種の種子植物とシダ植物のうち、35種の絶滅危惧種が島内に生育しているか、最近まで生育していたと見られる。このほかにも上記の一覧に公開していない植物種が多数生育していることが原告の一人の著書の中で写真つきで紹介されている(常田 2001)。予定地周辺地域にも多種生育していることは、調査報告書で確認されている。希少植物の種数としては、奄美大島は沖縄本島、西表島、世界遺産に登録されている屋久島に劣らないと言えるだろう。原告らが鳥獣について果たしたのと同様、アマチェア自然観察者の活動は、植物の調査においても学者の機能を補完し、重要な役割を果たした(環境庁 200027頁)。残念ながら、奄美大島には現在、大学の分校がない。多くの植物では島内の分布や個体数、減少傾向などが未調査、未集計であり、定量的に評価できない段階にある。

 南西諸島は生物学的、民俗学的独自性のきわめて著しい地域である。こうした面での独自性は、本土との比較において明らかであると同時に、南西諸島内の地域間においても顕著である。隣接する沖縄諸島と奄美諸島の間でも、生物相のみならず、方言や食文化に少なからず差異が認められる。こうした多様性は、初期には中央の大学からの一時的な訪問者によって調査され、その結果、研究の基盤となる記載的なレベルの知見が積み上げられた。

 しかし、こうした多様性・固有性のホットスポットにじっくりと腰を落ち着けた研究・教育を行なう場所が必要性である。沖縄県には総合大学である琉球大学のほか、芸能、民俗、文化、歴史、経済、法律などを扱う県立や私立の大学があり、それぞれが地の利を生かした活発な教育・研究の中心となっている。しかるに南西諸島の北半分を占める鹿児島県側の島嶼群には、研究の中心となるべき大学が一つもない。鹿児島県の本土は奄美諸島からは距離的にも文化的にも離れている。こうした現状に対応し、地域に密着しまた地の利を生かした学術的に高いレベルの研究・教育を展開するために、ぜひとも奄美大島に総合大学か、せめてその分校を設立することが必要である。

 近年、種の絶滅に関する研究が急速に進展することによって、生息域の連続性が種の存続の上で決定的に重要であることが明らかになってきた。つまり、生息に特に適した区域がソース(拠点)、他の区域がシンク(受け皿)となり、周辺地域への分散(移動)を繰り返すことによって地域全体で種が維持される。拠点を潰し、受け皿だけを残しても種は長続きしない。また、孤立すると長続きしない不完全な生息地が、互いに移出入を繰り返すことで全体として維持されることもある(松田2000)。この場合は一部の生息地を潰すか、移動経路(コリドー)を開発などで遮断するだけでも絶滅の恐れが高くなる。逆に、林道がマングース、ノネコ、クマネズミ、ハシブトガラスなど捕食者の移動を促すことがある。予定地への陸路に繋がる広域林道は、学会決議で中止が要望されたにもかかわらず、拡幅工事が今なお続けられている。

 アマミノクロウサギは、天敵が少ない環境で生息し、ニホンノウサギなどに比べて晩熟で繁殖力が弱い。そのため、激減した場合の回復力に乏しいと考えられる。予定地周辺地域の中で、どこに真の拠点があるかは、十分明らかではないが、影響を考える際には、ゴルフ場開発によって周辺地域も開発が進み、残された数少ない拠点の一つである予定地周辺のアマミノクロウサギ集団に悪影響を及ぼす可能性があることを考慮する必要がある。

 また、本計画はバブル景気崩壊以前のものであり、ゴルフ場経営の見とおしが、計画当時と同じかどうかは疑問である。反面、種の絶滅や生物多様性に対する関心は、地球サミット(1992)以前と比べて格段に高くなっている。たとえば、2005年日本国際博覧会は、会場計画が大きく二度変更された。「2005年日本国際博覧会に係る環境影響評価実施計画書」(2005年日本国際博覧会協会、199899頁)によると、博覧会会場予定地の愛知県瀬戸市の海上の森では、「具体的には、シデコブシ等希少種がまとまって生息・生育する環境の保全、屋戸川、寺山川等の水系の保全を図るという基本的考え方のもと、主要施設を整備する区域の大幅縮小等を内容とする」会場計画の変更を行った。その際、予定入場者数が4000万人から2500万人に減った。その後、環境影響評価を実施する過程で会場予定地にオオタカの営巣が確認され、主会場を移し、跡地開発計画を断念するなど、さらに会場計画が大幅に変更された(松田2000)。

 原判決は、予定地付近の自然について、「かつては放牧地として利用されていたが、同ゴルフ場予定地へ容易に通行できる道はない。付近は大部分がススキの原となり、それを常緑広葉樹林が取り囲んでいる」と、裁判官による現地検証も踏まえて、現地の自然を過度に美化することもなく、的確に理解している。

 本件で問題となったアマミノクロウサギなどは、絶滅危惧種であると同時に、特別天然記念物である。文化財保護法第80条により、「天然記念物に関しその原状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは」、軽微な場合を除き「文化庁長官の許可を受けなければならない」と定められている。これは動物個体の捕獲や殺傷を禁じるものと理解されている(池田 1997)。けれども、絶滅危惧種の保全にとって真に重要なのは継続的な捕獲の制限以上に生息地の保全であり、それに比べて一個体の捕獲や除去が致命的な影響を及ぼすとは限らない。絶滅危惧種の主な減少要因は、開発や造成による生息地・生育地の人為的消失、乱獲、環境汚染、遷移や放置、移入種である(松田 2000105頁、環境庁 200020頁)。予定地はアマミノクロウサギの良好な生息地の一つとみられ、保全上重要である。

 原判決が指摘した一般論によれば、林地は現在及び将来の人々の余暇、野生生物の生息地、景観の多様性といったサービスを対象とするニーズを満たすために、持続的に維持されるべきである。予定地の「開発行為により当該森林の周辺の地域における環境」を特徴付ける特別天然記念物アマミノクロウサギの個体群存続可能性を、「著しく悪化させるおそれがある」。二次林であっても、このような森林を確保し、適切に整備することは、人間の自然に対する一般的抽象的責務であったと解される。

 ここまで述べた内容により、以下のことが明らかになった。@奄美大島は世界的に重要な生物多様性の宝庫であり、かけがえのないものである。A近年のシイ林の伐開、林道拡幅やゴルフ場建設などのさまざまな開発計画、外来種であるマングースの分布拡大などにより島の基本的な生態系要素が失われつつあるが、有効な保全策が採られていない。Bその典型例である特別天然記念物アマミノクロウサギは、個体数減少と分布域縮小、分断化により絶滅の危機が増しつつある。C予定地は、本種の最大個体群を支える良好な生息地の一つと見られ、広域林道拡幅と合わせ、本種を存亡の危機に陥れている。これらのことから、予定地の自然の価値を高く評価すべきであり、原判決が認めた一般論が本件において適用され、行政の当該自然に対する保護義務があったと解すことができる

 

第2章  生物多様性保全の生態学的根拠

1  環境保全は全人類と子孫への責務である

 これまで、原判決が認めた1992年の地球サミットにおいて採択されたアジェンダ21、森林原則声明、生物多様性条約と、それらを踏まえた森林法や森林基本計画などの内外の法規範を前提として、自然の公共的価値と客観訴訟を否定した行政事件訴訟法の矛盾を論じてきた。以後、これら内外の法規範に見られる生物多様性保全の生態学的根拠について、私見を述べる。

 1993年に成立した日本の環境基本法の第一条には、「この法律は、環境の保全について、基本理念を定め、並びに国、地方公共団体、事業者及び国民の責務を明らかにするとともに、環境の保全に関する施策の基本となる事項を定めることにより、環境の保全に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与するとともに人類の福祉に貢献することを目的とする」と、私たちが享けてきた自然の恵みを私たちの子孫に残すためという目的をはっきりうたっている。環境保護の根拠が世代間持続可能性に帰することは、米国生態学会の委員会報告(Christensenほか 1996)にも明記されている。

 古来、文明がその地域の自然環境を損ない、文明そのものの衰退を招いた例は多々ある(鷲谷、1999)。しかし、過去の環境破壊は局所的なものにとどまり、世代を越えてゆっくり進んだのに対し、現在の環境破壊は地球規模で、かつ数年数十年単位で取り返しのつかない事態に陥る。我々は、先人の過ちを克服し、持続的に自然環境を利用する叡智をもちつつある。持続可能な自然環境を保全することが、1992年地球環境会議以降の一連の国際合意の最大の趣旨と解される。

 生物多様性条約は、前文で、「生物の多様性が有する内在的な価値並びに生物の多様性及びその構成要素が有する生態学上、遺伝上、社会上、経済上、科学上、教育上、文化上、レクリエーション上及び芸術上の価値を意識し」、「生物の多様性の保全が人類の共通の関心事であることを確認し」、「諸国が、自国の生物の多様性の保全及び自国の生物資源の持続可能な利用について責任を有することを再確認」することを明記している。すなわち、生物多様性の保全とは、人間の生活と離れた目的ではなく、現在および後世の人間が自然の恵みを持続的に利用できることを目指したものであることが伺われる。

 

2  自然の価値の基底性、固有性、公共性、連続性

 私たちは、水や空気や食糧がなくては生きていけない。豊かな自然に囲まれていなければ、文化的な生活を送ることができない。社会的、精神的生活も、多くを自然の恵みに依拠している。ある生態系の消失が直ちに人命を奪うことは少ないが、総体としての自然は、人間の生存にとって欠かせないものである。原告の言葉を借りると、自然の価値は基底性を持つ。

 自然、特に生物的自然は、全て唯一無二のものである。同じ人格と記憶と価値観を持つた人がいないように、どの生物も原則としてすべて違う。ある場所の生態系は他の場所とはどこかが違う。これは、それぞれの生物の進化と生態系が受け継いできた歴史の違いを反映している。すなわち、自然の価値は固有性歴史性(平川・樋口 1997)を持つ、かけがえのないものである。生態系の機能は、その地域で培われた固有性の産物である。全ての固有な生態系を守ることはできないが、奄美大島のように他と大きく異なる自然を人為的影響によって失うことは、後世の人々が享受できる自然の多様性を奪うことに繋がる。

 自然の恵みは、多くの者が共有する。山の幸、川の水、海の幸は特定の個人によって独占されるべきものではなく、公共性を持っている。しかし、ある地域の自然の恵みを享受できる人数は限られている。人数が増えるほど、子孫に自然の恵みを持続的に受け継ぐことは難しくなる。後に述べるように、これを共有の悲劇という。

 各地域の生態系は相互に関係しあっているChristensenほか 1996)。本稿ではこれを自然の連続性と呼ぶ。上流の森林を伐採すれば下流の動植物相が変わり、隣の池を埋めればそこからトンボは飛んでこなくなる。日本などに越冬のため飛来するナベヅルは、越冬地を守るだけでは個体群を維持できず、シベリアなどの繁殖地を保全しなければならない。したがって、ある地域の自然を守るためには、近隣の自然及び生物学的に結びついた他の地方ないし国の自然を守る必要がある。逆に、ある地域の自然を改変すると、近隣及び他の地域の自然に影響が及ぶ。そして、このような波及効果は、事前に科学的実証的に予測できるとは限らない。原告の主張にあるとおり、私たちは自然の成り立ちをよく知らない。自然を愛するつもりで野生のサルに餌をやったり、外国産のケナフの種子をまいたり、ペットや家畜を逃がしたり、ダムを造ることにより、自然を損なうことがある。

 

3  自然の価値は、資源としての価値だけではない

 ある自然を損なうことによって地域住民が経済的な不利益を受ける場合、事業者がそれを補償することによって合意を得ることがある。しかし、本来自然の価値は、人命と同じく、お金だけで計ることはできない。それと同じように、自然の価値も、失われる自然をお金で売り買いできるという意味で査定しているわけではない

 自然の価値もさまざまである。水産物などの農林水産物は、生態系から得られる有用物である。水産物は主に市場に出回り、人間の食糧になる。現実に起こっている乱獲は、後の世代の人々の食糧源を奪うことに繋がる。しかし、自然の恵みは有用物だけではない。酸素と有機物をもたらす植物の光合成、植物や底生生物による水や物質の浄化作用、枯れ葉やさまざまな生物の遺体を分解する微生物などは、人間の生活の基盤としても欠かせない。生態系の機能(ecosystem function)は、これらのサービスを人間にもたらす。さらに、生物の存在が人間の感性や知性に働きかけ、さまざまな快適さをもたらす(鷲谷・松田 1999、鷲谷 1999)。それらの多くは、本来、豊かな自然に囲まれて暮らしていればおのずから享受でき、価格を持たない。しかし、周りから自然が失われるにつれて、人間はそれらの快適さなどを、お金を出して求めるようになりつつある。

 生態系機能や精神的価値を含めた生物多様性の価値を科学的、客観的に計ることはむずかしい(「原告の主張」第六の二の3の(二))。世界の自然の価値のすべてを金銭的に評価することはできないが、できる範囲で控えめに見積もっても年間数千兆円という試算がある(Costanzaほか 1997)。この試算によると、有用物としての資源の価値はごく一部にすぎない。むしろ、査定した自然の価値の大半は、生態系機能などがもたらす市場の外にある価値である。干潟や藻場を潰す際には、地元の漁協に対して補償交渉を行い、漁業にかかわる価値を算定する。ところが、漁業者は、尊い自然の恵みのほんの一部を利用しているにすぎない。漁業者が漁業を続けることは、漁業補償に比べて桁違いの自然の価値を守ることを意味している。

 原判決では、「個別の動産、不動産に対する近代所有権が、それらの総体としての自然そのものまでを支配し得るといえるのかどうか」と問うているが、民有林を買い取る際の地代は、その林の自然の価値に比べてはるかに安い。自然の恵みを享ける者は地権者だけではないから、これは不合理ではない。地代と自然の価値の乖離は、原告が主張した自然の恵みの公共性を反映している。これは、原判決で提起された私的所有権と環境問題との矛盾に関係する。地権者はその土地を活用して利益を得る自由があるが、地権者の私的利益がその土地の自然の価値を損ない、外部不経済を招くことがある。原判決は、これを今後の社会が解決すべき矛盾と捉えた。

 

4  生物多様性条約は予防原理原則に基づいている

 人間活動によって生態系に影響が及ぶことは避けられない。持続可能な自然の恵みを維持するためには、生態系自身の維持機構を生態学的に解明する必要がある。生物多様性を維持する機構の一つは、遷移と自然撹乱の釣合いである(Christensenほか1996、鷲谷・松田1999)。すなわち、生態系は時間的空間的な定常状態にはなく、局所的には草原から森林へなどと移り変わりつつ、山火事や土砂崩れなどにより遷移が後戻りすることで、全体としてさまざまな遷移段階の場所を持つ不均一なモザイクとなり、多様性を維持していると考えられている。生物が誕生と成長と死亡を繰り返すことによって集団を維持しているのと同様、生態系も常に変遷を繰り返して多様性が維持されている。

 野生生物は、自然状態でもやがて死ぬ運命にある。生態系は、自然状態でも日々変化する非定常系である。自然保護とは、有限の生命を尊び、無常の生態系を維持するという「矛盾」を抱えている。野生生物の個体を手厚く守ること、生態系を現在の状態に人為的に維持することが、必ずしも真の意味での自然保護とは言えない。生態系の営みを科学的に理解しなければ、ある保全措置が適切かどうか評価できない。人為を完全に排除することができない以上、人と自然が共存する姿にはある程度の任意性がある。生態系管理においては、はっきりと管理の目的を明らかにし、客観的定量的な目標を立てる必要性が強調されている(Christensenほか1996)。掲げる目的は、一意的に決まるわけではない。

 原判決では、森林法によって守るべき森林の公益的機能が「森林として利用されてきたことにより確保されてきた」と解している。里山では、人手をかけることで生態系の機能と生物多様性を維持することがある程度期待できる。しかし、放置された原生林や二次林にも、酸素供給を初めとする公益的機能がある。放置された森林だから開発してもよいとは限らない。森林法の規定あるいは解釈にかかわらず、自然の再生力を過小評価すべきではない。

 さらに、人為による生態系の変化は部分的には確率事象であり、生態系が所期の目的通りに維持されない危険性(リスク)を評価すべきである。人命が簡単に生き絶えないのと同様、生物圏もおそらくは人類以上に丈夫である。けれども、人間がこれまで享けてきた自然の恵みが得られなくなることは多々ある。直接人命を奪わなくても、ある犯罪行為が人間の尊厳と利益を深く損なうことがあるように、人間活動が生態系に及ぼす影響も、単に種の存否だけでは評価できない。

 現在の生態学では、生物多様性をどう守るべきか、個々の生物を保全することの具体的な意義について、必ずしも科学的に明示することができない。個々の生物が絶滅した影響や、個々の森林に対する人為的影響の内容は、必ずしも具体的に予測できるとは限らない。このような予測不能性は、現代の複雑系科学に普遍的に見られる。

 1992年に採択されたリオデジャネイロ宣言の第15原則では、「環境に対して深刻あるいは不可逆的な打撃を与えるとき、科学的不確実性が残されていることが、環境悪化を防ぐ費用対効果の大きな政策を先延ばしにする理由として用いてはならない」という予防原理(予防原則(予防原理:precautionary principle)が国際的に合意された。これが地球温暖化を阻止するための気候変動枠組み条約と地球の生物種の保全をうたった生物多様性保全条約の一つの根拠となった。これまで、実証された事実や学説だけを社会に説明するのが科学者の見識とされてきた。けれども、人間が環境に及ぼす負荷は、科学の進歩よりも早く地球を蝕み、酸性雨、地球温暖化、オゾンホール、生物の大量絶滅などが進んでしまった。公害問題に対して、科学的立証が不十分なために対策が遅れた苦い経験もあった。そのため、伝統的な科学の見識を超えた予防原理原則が国際的な合意になった。

 生物多様性条約の前文には、「生物の多様性に関する情報及び知見が一般的に不足していること並びに適当な措置を計画し及び実施するための基本的な知識を与える科学的、技術的及び制度的能力を緊急に開発する必要があることを認識し」、「生物の多様性の著しい減少又は喪失のおそれがある場合には、科学的な確実性が十分にないことをもって、そのようなおそれを回避し又は最小にするための措置をとることを延期する理由とすべきではないことに留意」すると記されている。種の絶滅は、明らかに不可逆事象である。失った森はやがて形を変えて再生するが、数百年を要し、やはり、予防原理原則の適用条件を満たしていると考えられる。

 同時に、絶滅危惧種を保護することは、生態系の機能が大きく損なわれていないことを間接的に示す指標の一つと考えられる(鷲谷・松田 1999)。自然状態においても地域絶滅は生じ得るが、人為的影響により生態系の機能が損なわれることにより、地域絶滅の頻度が桁違いに高まっていると考えられる(鷲谷・矢原 1996)。したがって、飼育や移植によって絶滅危惧種を守ることは本末転倒であり、生息する生態系自身の保全に努めるべきである。絶滅危惧種が生息している生態系が、必ずしも他の生態系より機能や価値が高いとはいえないが、不可逆的な変化に対する予防原理原則により、絶滅を回避する政策が優先されていると考えられる。

 ここまでの議論は、以下のようにまとめられる。@自然の価値は、資源としての価値だけでなく、生態系機能の価値なども含めて考慮すべきであり、むしろ資源の価値よりずっと高く評価すべきである。Aそれでもなお、自然の価値すべてを的確に評価することは、現時点ではできない。B予防原理原則により、不可逆的な変化を避けることが重視される

 

5  持続的利用を阻む二つの要因

 生物資源は、補充されずに使った分だけ減る化石燃料や、使用量と無関係に天候により補充される水資源などと異なり、残した親(稲作で言う「種もみ」にあたる)の分だけ補充される再生産資源である。したがって、乱獲は永続的な収穫(漁獲)量を減らし、目先の利益のために長期的な自然の恵みを失う行為である。全く資源を利用しなければ収穫を得ることはない。乱獲すれば長期的な収穫を得ることはやはりできない。中庸の捕獲圧で利用するのが、長期的に最大の収穫を得ることができる。これを最大持続収穫量(または生産量)という(松田2000)。この概念は水産学や野生生物管理では古くから知られていた。それにもかかわらず、古今東西、人類は乱獲という過ちを繰り返してきた。その科学的理由は二つあると考えられている。

 一つは、将来の収穫の経済的な価値が現在の収穫のそれに比べて低く見られることである。たとえば、南半球に生きているクロミンククジラは国際捕鯨委員会科学小委員会により、76万頭いると推定されている。この結果を受けて、持続可能に利用できる商業捕鯨の捕獲枠は2000頭である。この捕獲枠は科学小委員会により国際的に合意されたものだが、推定誤差などの不確実性を十分考慮した結果である。しかし、もし76万頭すべてを獲り尽し、その収益を銀行に預金すれば、年1%の利子がつくとすれば毎年7600頭分の利子を得ることができる。この試算では鯨肉価格と需給均衡の関係や、将来の利子率の不確実性を無視しているが、経済的割引き率よりも当該生物資源の再生産率が低いとき、乱獲は持続的な利用に比べて高い現在価値を得ることができる。自然界には、イワシやシカのように成熟年齢が2、3年と短く、再生産率が高い生物と、クマのように成熟までに数年以上を費やし、再生産率が低い生物が共存している。一つ一つの生物資源を生態系から切り離して考え、持続的利用と市場経済の割引き率を天秤に掛けていては、生物多様性全体を守ることはできない。年5%の割引率を仮定した場合、一世紀後には0.6%に価値が減る。ただし、鯨のような有用生物が存続することによって、生態系の機能が維持されることが期待できる。予防原理原則により、資源の枯渇という不可逆的な変化は避けるべきであろう。

 乱獲をもたらすもう一つの理由は、1968年にトーマスギャレット・ハーディンGarret Hardinが提唱した「共有の悲劇」または「コモンズの悲劇」と呼ばれるものである(松田 2000)。多くの野生生物資源は、日本の民法では無主物とされ、誰のものでもない。したがって、野生のシカやイノシシが田畑を荒らしても、天災と同じく賠償責任は発生しない。自然物を捕獲することは、「鳥獣保護法」などにより時期や捕獲方法等が制限されている。しかし、正当に捕ったときには獲物は捕った者の所有物となる。乱獲はとった者の目先の利益を増やし、全ての利用者の将来の恵みを損なう。誰かが乱獲を行うとすれば、自分が目先の乱獲を我慢しても、長期的な利益を得られる見込みが少なくなる。ゲーム理論による非協力解と呼ばれる概念によれば、利用者の人数(経済主体)が多くなるほど、乱獲への歯止めが効きにくくなる。これを共有の悲劇という。したがって、非協力ゲームの成立要件である利用者の自由競争を何らかの形で制限する管理規則を設けるか、互恵的で持続的な協力関係を築く条件を整える(松田 2000)など、将来の共通の利益を守る必要がある。

 これらに対して、生態系の非定常性や推定技術の不確実性、将来の不確実性などは、必ずしも乱獲をもたらす要因とは言えない。なぜなら、これらの非定常性や不確実性を考慮した管理方策が既に提案されているからである。その管理方策とは、資源の変化を常に監視し続け、資源状態が悪化した場合に保護政策を強化し、改善した場合に緩和するというものである。これはリスク管理の一つである。国際捕鯨委員会科学小委員会では、鯨類の資源管理制度として1984年に改定管理方式を採用することを合意した。改定管理方式では鯨の個体数が捕鯨がないときの54%以下になったときに捕獲枠をゼロにすると決められている。これは、先進諸国を含めた実際に利用しているほとんどすべての水産資源の資源管理に比べて、極端に手厚い保全措置である。たとえば米国の漁業における乱獲の定義を検討した委員会報告書では、もとの資源量から極端に減った場合に禁漁とすることを提案しているが、たとえば元の資源量の2割ないし1割を下回った場合に乱獲と見なすとしている(Rosenbergほか 1996)。

 

6  環境政策に欠かせない合意形成

 現在では、情報公開法の施行1998年に閣議決定された意見照会手続き(パブリックコメント)制度の定着など、市民が直接意見を述べる機会が確保されるようになりつつある。後者は、行政施策に対する住民の多様な意見を反映する機会を確保し、施策を形成する過程の一層の透明化を図り、行政の説明責任をまっとうするためのものと言われる。インターネットなど新しい情報媒体の普及とともに文書公開が技術的に手軽になったことも、意見紹介手続きの普及に役立ったと思われる。自然保護についての目的や評価基準の設け方に任意性があるとすれば、このような合意形成の手続きはいっそう重要である。1999年に施行された環境影響評価法においては、方法書及び準備書段階で、所轄官庁大臣、知事、関係市町村長及び関心を持つ市民が意見を述べる機会が確保されている。

 生態系機能の価値は、資源としての価値よりも、概ね広域で、より長期的な視野に立って評価されるだろう。開発によって得られる経済的利益を受ける住民の範囲も、森林法により直接、法律上の利益を得ると認められる地域を越えるかもしれない。先ほどの漁業権をめぐる説明でも述べたように、開発行為によって損なわれる自然の価値は、しばしば、資源を持続的に利用することによって得られただろう価値をはるかに上回るものである。しかし、限られた範囲の地域住民にとっては、地元の自然を守ることより、開発を受け入れるほうが経済的に利益になる可能性がある

 我々は、新鮮な空気と水を無償で享受しているが、自ら所有する土地だけからそれらの資源が賄われているわけではない。自分の土地だけを開発することによる生態系機能の低下は、無視できるか、許容できるほど小さいだろう。それに比べて、所有者及び地域住民にとって、土地を開発することによって得られる経済的な価値の方が大きいかもしれない。しかし、それは他の自然が守られているという前提での比較であり、全員が同じことを考えれば、自然は次々に、大きく損なわれることだろう。その結果、欠かすことのできない自然の恵みを許容できないほどに損ない、開発による目先の利益をはるかに超える損失(外部不経済)をもたらすおそれがある。これは、先ほど説明した「共有の悲劇」の状況に通じる。

 ある自然を持続的に利用する人数あるいは負荷の総量には、概ね限りがある。何人の者が持続的に利用できるかは、その自然をどの程度の自然度で維持するかによって異なる。また同じ自然のどんな資源を利用するかによって、適正な利用者数は異なる。ある森に川釣りに入る人、狩猟に入る人、山菜採りに来る人、自然観察に来る人の環境容量は、互いに異なるだろう。さらに、その森の下流で森の恩恵を受けて暮らす人の数は、それらのいずれとも違うだろう。その限度を超えると、自然の公共性には排他性が生じる。ある特定の自然の恵みを享ける権利を万民に認めることは、その自然の持続的利用を不可能にし、共有の悲劇をもたらす。

 だからと言って、個人的な法律的利益、あるいはその侵害を、行政訴訟を提起できる用件としても、問題は解決しない。人里離れた原生自然が損なわれることに、異議を挟むことはできない。近くに居住者がいても、個人的利益の救済のために当該自然を守るよう訴えるとは限らない。近くの居住者個人だけが自然の公共的利益を享ける者ではない。そして、近くの居住者個人が享ける(少なくとも目先の)経済的な利益だけと比べるなら、開発行為がそれ以上の経済的な利益をもたらす可能性がある。したがって、事業者にとっても、狭い範囲の住民に配慮した事業計画等をたて、説得や補償によって彼らとの合意を取り付けることは、より広い範囲の住民を説得するよりもたやすい。

 さらに、ある資源への負荷により、他の資源の持続的な収穫量が異なることがある。199512月の国連食糧農業機構による「食料安全保障のための漁業の持続的貢献に関する京都宣言及び行動計画」では、「複数種一括管理の有効性について研究」し、「適当な場合には、資源の持続的開発と合致した方法で、生態系における複数の栄養段階にある生物を漁獲することを検討する」ことが合意されている。たとえば、クジラの持続的収穫量は、イワシ資源をどの程度利用するかに左右される可能性がある。ある自然から得られるそれぞれの資源、生態系機能を享受する利用者数の適正規模は、必ずしも互いに独立には決められない。いずれにしても、自然と持続的に係ることのできる利用者数の適正規模は、資源の種類に応じて多面的であり、土地所有者と一致しない。

 

結論

 原告は、当該訴訟において、客観訴訟を否定するという現行法の枠組みを維持しつつ、公定力(違法な行政行為であっても、それが権限のある機関によって取り消されるまで有効なものとして通用する力)を排除するという行政事件訴訟法の目的を全うしていると主張した。原告は、地元である奄美大島の住民全ての原告適格を主張しているわけではない。原告は、当該森林をどの程度の頻度、どのような経緯で訪れているかにより、また訪れる当該森林の自然の価値、すなわち、原告らにとって他に代えがたい自然があるか否かにより、適格性が判断されるべきだと主張している。控訴理由には、原告等と開発予定地との個別具体的な関係性を構成する事実に注目し、原告等と予定地との関わりを森林法上保護された利益であると主張されている。本件の原告の場合、個別的関係性として、@「控訴人等のフィールドワーク・自然保護活動等を目的とした森林へのアクセス」、A「控訴人等と森林との精神的関係性」を挙げた。

 原告らは、客観訴訟を認めようとまで主張しているわけではない。住用村予定地は、かつては一部が放牧地として利用されていたが、現在では、自然が回復しつつある。原告は、その自然の回復過程を注視していた、数少ない人間である。現に、本件を巡って、アマミノクロウサギの生息を真っ先に主張したのは原告であり、その後事業者が再調査し、生息が確認されたことは、原判決にも記されている通りである。すなわち、予定地の自然の価値を享受する単なる一市民ではなく、当該自然が失われることを最も深刻に悲しんでいた人々ということができる。その訴訟の動機は真摯であり、彼らの訴えこそが予定地の自然の価値を世界に知らしめることになった。

 原判決のような考え方をすると、当該自然の開発の有無により、私的所有権に係る者だけに原告適格を認めることになる。これでは、有用物としての価値だけを評価することになり、現在及び将来の広範囲の人々に対する公共性を持つた自然の恵みの大半を無視し、開発による経済的利益と比較することに繋がる。これは共有の悲劇の条件を整え、自然の恵みを食いつぶす不合理な事態を招く。この矛盾は、原判決が認めたとおりである。

 本件を省みて、私は、公共的価値を持つ自然を守ることがいかに難しいか、改めて法制度の限界を痛感した。本件では、失われようとする自然を真剣に愛する人々の訴えがこの裁判を維持している。しかし、多くの自然はその価値が人々に自覚されないまま、開発によって失われている。私たちは、特に20世紀を通じて気付かぬうちに多くの自然を失い、その恵みを享ける機会を半永久的に失ってしまった。当該自然の価値に気付き、訴えを起こしても取り上げられることができないことは、はなはだ遺憾である。

 

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