松田裕之2002/04/06
私は生態学者であり、もともと予防原則もリスク評価も専門ではない。しかし、生物多様性の保全を考えるとき、予防原則とリスク評価の概念はともに必要とされている。生物多様性条約には、「生物の多様性の著しい減少又は喪失のおそれがある場合には、科学的な確実性が十分にないことをもって、そのようなおそれを回避し又は最小にするための措置をとることを延期する理由とすべきではないことに留意し」と、1992年リオデジャネイロ宣言第15原則(予防的尺度)が明記されている。すなわち、予防原則は科学的実証が不十分な段階で条件付きで対策をとることである。
環境リスクの定義もさまざまだが、私は以下のように定義する。環境リスクとは、「私たちが切実に避けたいと見なすような環境への負の影響が起きてしまう確率(危険度)」であり、「しばしば科学的に実証されていない前提を用いて評価される(ロドリクス1994『危険は予測できるか!』宮本純之訳、化学同人)」。本来は実証されない前提を使わないのが科学であるが、上記の予防原則により、実証されない段階で対策をたてるために、この概念を用いている。つまり、リスク評価は予防原則に基づいている。私は、これら二つの概念をともによく用いる。
ところが、予防原則とリスク評価は、しばしば相反する概念とみなされるようである。後者を重視する中西準子氏のホーム頁(雑感126、2001.4.9)によると、前者を重視する金森修氏は、リスク評価を行う中西氏のような態度は、結果的に低いリスクを見逃すことに繋がり、現状肯定的であると批判している。逆に後者を重視する池田正行氏のホーム頁(狂牛病の正しい知識2003.3.4現在=この頁は随時更新されているようだ)によると、前者を重視する態度を「ゼロリスク探究症候群」と呼び、「社会的に不当な差別の域に達している」と断じている。そこで、私はここで前者を「ゼロリスク論」、後者を「低リスク容認論」と呼ぶことにする。
たしかに、予防原則を重視する文書では、リスクはできるだけ低くするという意味で使われることが多い。たとえば国際自然保護連合(IUCN)の「Redlist Categories」(2000)では、「絶滅は偶発的事象とみなされる。したがって、絶滅リスクの高いカテゴリーに挙げられた生物種はそれだけ絶滅が起き易く、(有効な保全措置が採られなければ)全体として絶滅リスクの低いカテゴリーに挙げられた種より多くの種が一定期間のうちに絶滅するだろう。しかし、リスクの高い種の一部が存続し続けたとしても、初期の判定が正確ではなかったとはいえない」と、不確実性があることを強調するためにリスク概念を用いている。
結論を先に言えば、私は後者に賛成である。そして、後者は予防原則に基づいており、予防原則自身は必要不可欠である。以下にそれを論証する。
世間には、その存在が広く知られたリスク、発見されているリスクに満ち溢れている。そしてまだ誰も指摘していないリスクもそれ以上にたくさんあることだろう。これらすべてを避けることは不可能である。しかし、ゼロリスク論は、もしも中西氏の引用が正確だとすれば(現在確認中)、まずこの命題を否定するようだ。すなわち、「(低リスク容認論が)有害物質のない環境で生活できないという認識が絶対的前提にされている」ことを批判する。天然の食材にも発癌性がある。魚や肉の焦げにも、コーヒーにもある。これらの発癌性は、しばしば知られている添加物のそれよりも高い。たとえサンマの塩焼きを食べる江戸時代の食生活に戻っても、発癌リスクをなくすことはできない。
そもそも、現代先進国人の死因として癌が高い(日本では死因の1位だが、米国では心疾患の方が高い)のは、おもに他の死亡リスクが減ってきたからであり、発癌リスクが増えたためだけではない。すべての死因を総合的に評価すべきである。死亡率を減らすだけなら、現在は発癌リスク対策を過大評価している。また、生物はいつか死ぬのが当然なのであって、程度の差こそあれ、人間も例外ではない。後述するが、生命は、有限であるからこそ尊いのだ。
生物多様性の保全においても、すべての自然は人間にとって価値があると考えられる。しかし、そのすべてを守ることはできない。そこで、保全すべき場所に優先順位をつけることは国際的な定説である。どのような基準で優先順位をつけるかが問題だが、Myers N et al. (2000 Nature 403: 853-858)では、単位面積あたりの固有種が多い場所を希少種の宝庫hotspotとし、たとえば20箇所を残すとしてできるだけたくさんの種があるような20箇所の組合せを選ぶという保全策が提唱されている。これによれば、単位面積あたりの種数の多い熱帯林を複数残すのは必ずしも妥当ではなく、まず熱帯林を一つ選び、熱帯林と生息種が重ならない砂漠なども残すべきである。
同じように、一人一人の生命を守る上でも、リスクをゼロにできないことに違いはない。
私は、『環境生態学序説』(2000、共立出版)の中で、以下のように書いた。
「環境問題の危険は,個人が被る危険に比べて桁違いに高額の費用をかけて避けるよう努力されている.ダイオキシンを取り締まるくらいなら,喫煙を禁止したり,自動車のエアバッグを取り付けたり,自転車専用道路を作る方がはるかに低い費用で多くの人命を救うことができるだろう.」
これが、人命を金銭評価したと思われるらしい。私が言いたいのは、何が優先されるべきかということであって、この本でも明記したとおり、金を払えば人を殺してもよいということではない。たしかに、すべてのリスクを削減できれば、それに越したことはない。しかし、物事には優先順位があると主張した。喫煙が本人だけでなく、周囲の人の健康を害することが統計的に証明されているにもかかわらず、禁止されてはいない。少なくとも喫煙者を登録制にし、新たな喫煙者を禁止することは可能である。自転車専用道路を作ることは、大気汚染を減らす上でも有効であり、交通事故回避だけでなく、環境にもやさしいだろう。これらの点は、ゼロリスク論でも異論はないと期待する。優先順位をつけないということは、結果的に現実に存在する不合理な優先順位を肯定することになる。
たとえば、携帯電話は飛行機の運行に支障をきたすリスクがあることが(多分)証明されている。だから飛行中は電源を切るべきである。私は、この規則に異論はない。しかし、本当に危険なら、もっと真剣に取り締まらなければいけない。乗客全員が電源を切っているとはいえない。私も、一度切り忘れたことがある。これは、きわめて低いリスクながら、飛行機事故のリスクを高めているはずである。では、銃や刃物と同じく携帯電話の持込みを禁止すべきかといえば、誰もそうは言わないだろう。リスクがかなり低く、携帯電話の便益が勝ると判断しているからではないか。ゼロリスクを探究するなら、この証明されたリスクを容認するのは矛盾である。つまり、ゼロリスクを探究するといいながら、結果的にはリスクの大きさと便益によって選別しているはずである。それが悪いこととは言わない。ゼロリスクを追求することが不可能であることを認めるべきである。
それに反して、携帯電話が使う本人の健康に悪影響を及ぼすことは、(多分)証拠不十分である。リスクを論じるときは、証拠の確実さと影響の大きさを分けて考えないといけない。しばしば両者が混同される。携帯電話が、もし使用者の健康に悪影響を及ぼすとすれば、そのリスクは飛行機の運行への影響よりはるかに確率が高いだろう。これは自己責任(あるいはリスクの受益者負担)だが、私たちはそのリスクの存在の可能性すら知らされていない。こちらの方がずっと問題だと思う。私たちは、携帯電話によって、自分に対する証拠不十分のリスクと、機械に対する証明された低リスクを増やしている。しかし、もはやそれを避けることはむずかしい。
ゼロリスク探究症候群の命名者であろう前述の池田氏は、ゼロリスク探究症候群を「ゼロリスクを求めるあまり,その行動が大きな社会問題を起こすことに気づこうとしない心理」と定義している。ここでは単純に「発見されたリスクをすべて回避しようとする心理」という意味で用いる。あえて「気づこうとしない」かどうかは不明である。
しかし、気づくべきである。この問題を、所沢ダイオキシン問題とBSE問題を例に論じる。所沢ダイオキシン騒動の少し前には、O157貝割大根騒動があった。これは病原性大腸菌O157で被害がでた際、貝割大根がリスク源として報道され、業者が致命的な打撃を受けるという風評被害が生じた。この場合は、本当に貝割大根が汚染源だとしたら、リスクはかなり高く、当然報道すべきである。しかし、確実性に欠け、最近の裁判(一審)では貝割大根業者が勝訴した。汚染源はいまだに特定されていない。裁判では疑わしきは罰せずという基準があるが、これは予防原則とは正反対である。異論はあるかもしれないが、食中毒の場合、もし汚染源の業者を特定するならば、裁判の原則を優先すべきだろう。
BSE騒動は食肉業界に大きな打撃を与えた。少なくとも、焼き肉屋は被害者である。そもそも、脳などの危険部位を除く牛肉からヤコブ病が感染するリスクは、病理学的にほとんど無視できる。むしろ豚肉を客が焼いて食べるときのジストマ感染のリスクの方が、はるかに問題である。国産牛肉が外食産業で使われなくなるのは、もともと輸入牛肉より国産牛肉を健康上と農政上の理由から選んでいた私にとっては、不合理である。
それはさておき、所沢の産廃業者が所沢農地の周辺でダイオキシンを排出していたことから、農産物のダイオキシン濃度を公表すれば、不買運動などが起きることは容易に想像できたはずである。私は農家は被害者だと思う。かりに濃度が一生日常的に食べ続けて危険性が無視できないと予想される基準値を上回っていたとしても、数年のうちに問題を解決すれば済むことであって、所沢農家が農作物がほとんど売れなくなるほどの事態を強いるべきではない。
基準値とは、平常時のときに守るべき値であり、一過性の事故や発覚した事件においては、通常それよりはるかに高い値がでる。一過性の事故や事件に対して、平常時と同じ基準値を適用すべきものではない。そして、環境汚染は前者だけでなく、後者のリスクが高い。ところが、後者のリスクは通常、ほとんど評価されない。事故リスクは日常的なリスクとは別に吟味すべきである。
情報公開は市民の判断能力を信用し、非公開は信用していないことを根拠にするというが、基準値などの数値の意味は正しく説明されていない。数値は専門家に公表すべきだが、市民にこう表すべきなのは真のリスクについての専門家の判断である。緊急性を要するかどうかの判断を多様な立場の専門家の間で議論し、要しない場合は値を公表する必要はない。
以前問題になった所沢の農家にせよ、BSE騒動で閑散としている焼肉業界にせよ、彼ら自身が犯罪者ではない。ホームから転落した人を自らの命を省みずに助けようとした人が美談とされるのに、なぜほとんど無視できるダイオキシンやプリオンのリスクを避けるために、社会の一員が破産するようなことを避けないのだろうか。BSEの失政については、日本政府の責任は重い。しかし、牛肉を食べなくなっても彼らが失業するのではない。失業するのは関連業者である。彼らのことを可哀想だとは思わないのだろうか。
すべての生物は生態系の一員である。直接人間に役立つかどうか分からない生物でも、何かかかわっている。それらすべてをできるだけ大切にしようと言う自然保護思想はよく理解できる。同じように、人間社会の一員である食肉業界や農家は社会にとってたいせつである。彼らを助けるためなら、ほんのわずかのリスクを避ける必要は全くないと私は考える。そのリスクを避けるなら、自動車を運転したときに私たち自身が他人である歩行者を事故死させるリスクの方がはるかに高い。
ゼロリスク論は、自分が悪いことを一切していない、あるいは一切すべきではないという崇高な誤解から生まれる。社会に生きている以上、ある行為あるいは技術が万民に利益を与えているとはいえない。むしろしばしば、一部の人に負荷を与えることがある。先進国民はどんなに環境に優しく生きていても、平均的な途上国民よりは環境への負荷が大きいだろう。私たちが日常排出する二酸化炭素量や日常使うプラスチックの量は、途上国民よりはるかに多いだろう。
新約聖書ヨハネ伝第8章7−9節にある以下の一節を紹介する
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスのこの言葉に係らず、石を投げ続けるような態度は、新たな差別を生むことだろう。