鬼頭秀一
下関のIWC総会では、前代未聞の大変憂慮することが起こった。この問題に対して、最近の環境思想、環境倫理学の流れを踏まえて問題を提起してみたい。
先住民生存捕鯨は以前からIWCの中でも認められてきており、捕獲枠の継続要求については、協議による合意で行われてきた。しかし、日本政府は、アメリカに対しての一種の報復的な対応として、「科学的」資源管理の方式の機械的適用を主張、投票で決着することにこだわり、その結果、投票により、否決されることになった。妥協案も出されたがことごとく否決され、少なくとも向こう五年間、アメリカのアラスカとその対岸のロシアの先住民のホッキョククジラの生存捕鯨は認められなくなった。
そもそも、生存捕鯨が特例的に認められているのは、先住民の少数民族の人たちが自らがその地で生存する必要最小限の資源を確保することが、彼らの生存のため、また文化を維持するための権利として、政治的判断として認められてきた。特に、一九八〇年代後半から、各地の先住民の諸権利の保証に対して世界的な機運の高まりの中で、一部の急進的な団体を除いては、反捕鯨の立場からも最低限彼らの権利を何らかの形で保証するのは当然の責務として考えられてきた。
もちろん、伝統的に捕鯨を続けてきた先住民であっても、数の制限だけでなく、捕獲の仕方や捕獲したクジラの肉の流通についても、ゆるやかながらも、厳しい制限がある。彼らが近代的な形でクジラを利用することが許されているわけではない。日本の沿岸捕鯨が、いくら、文化的な面から伝統捕鯨との連続性があるとしても、少しでもまじめに考えれば、根本的に違いがあることは明らかである。
環境思想、環境倫理学の流れからすると、一九八〇年代までは、人間中心主義に対する反省から、人間以外の生物や生態系の保護を中核に据えた、生命中心主義、生態系中心主義が優勢で、反捕鯨の論調はその中で力を持ってきた。
しかし、一九八〇年代の終わりから、先住民の権利の保障が大きな課題となり、非西洋社会での欧米流の利用を排除した保護に対してさまざまな問題が投げかけられる中で、マイノリティの人たちの利用も含めた環境にかかわる権利をきちんと保証すべきだという、「環境正義」の考え方が大きな力を持ってきた。
そのような大きな思想的な流れの背景の中で、捕鯨のあり方を議論していく必要がある。
「伝統」を固定的に考えることに対しては再考が必要で、マイノリティの権利を確保した上で、伝統文化、近代技術、環境の資源的な、また社会的な関係をきちんと詰めた形の議論が必要になってくる。また、商業捕鯨と生存捕鯨の中間に位置する日本の沿岸捕鯨の再開も、どのような枠組みで認めていくかという議論もその中でされるべきである。
沿岸捕鯨の再開に向けての努力は、ここで述べた世界的な思想状況の大きな転換の中で捉えていくことが必要であるはずなのに、日本政府は、先住民の少数民族の問題を、日米の国家間の問題の中で処理し、マイノリティの人たちの権利を奪うという、時代錯誤的な対応にでてしまい、国際的な信用という点でも大きな汚点を残すことになった。沿岸捕鯨の適正な形での再開に対しても、自ら道を閉ざしてしまったのではないかと大いに危惧するところである。