ゼロリスク論を否定した環境倫理学者

鬼頭秀一(2004)「リスクの科学と環境倫理」(丸山徳次編『応用倫理学講義 2環境』岩波書店所収116-138)への意見

松田裕之 更新

要約:鬼頭氏はこの論文でゼロリスク論が原理的に不可能であるとし,その上で社会的リンク理論を考慮したリスク管理論の組み替え,および戦略的予防原則の必要性を説いている.私はこれらに基本的に同意する.しかし,ゼロリスク論に一定の社会的意義を認めること,リスク評価が本質的価値を見逃すこと,科学万能論の否定を人間中心主義からの脱却と捉えること,価値観の多元性と科学の不確実性を混同することには賛成できない.

 環境リスク,特に人の健康や生命に関わる健康リスクについては,それを極力少なくすべきだと言う「ゼロリスク論」をとる倫理学者が多かった.けれども,鬼頭氏は本論文の中でそれを明白に否定した.つまり,ゼロリスク論を「歴史的にも,現在でも,また,未来においても,リスクをゼロにすること自体,原理的に無理であることは明白」(122頁)と述べた.中西準子氏が以前から自然はもともと危険なもので,安全性を追求することと自然保護はしばしば矛盾すると指摘していたこと,鷲谷いづみ氏が「厳しくも恵み豊かな自然」を守ろうと主張している(鷲谷いづみ・草刈秀紀編「自然再生事業=生物多様性の回復をめざして」築地書館,2002年)ことに通じる.「私たち人類は,今まで自然から脅威を受けつつも,・・・自然に介入し,また自然をなだめつつ生きてきた」(121頁)という認識が,ようやく環境倫理学者の間でも指摘されるようになった.
 しかし,まだゼロリスク論を標榜する倫理学者は,上記の本の執筆者陣の中を含めてたくさんいる.にもかかわらず,鬼頭氏は「このゼロリスク論は,今日までの環境問題において,一定の役割を果たしてきたことも事実である」(122頁)と擁護してしまう.このように,彼の主張には謬説を謬説と認めながら弁護し,延命させてしまう歯切れの悪さがつきまとう.利益を得るものとリスクを負う者はしばしば異なり,多数者が利益を得て少数者がリスクを負う場合には,ゼロリスク論が「結果的にマイノリティの環境に関わる権利を守ることを意図していたことも多い」(123頁)というが,所沢のダイオキシンの例では,明らかにゼロリスク論者が報道の場で地元農家という少数派を切り捨てたのであり,そのような受苦者への配慮を全くしなかったことが問題だったはずだ.ゼロリスク論者は,このことを明確に反省したのだろうか?少なくとも内心では,間違っていたと考えているのだろうか?私はその反省の言葉を聞いたことがない.
 鬼頭氏はリスク評価や管理の段階にこそ「価値」や「社会的正義」を含めた統合的な理論を立てないと,本質的な問題が付随的なものとしてしか捉えられないと述べている(130頁).たしかに,利害関係者の顔が見えないところで意思決定を行う場合にはその通りだろう.だが,科学的にはじき出した指標はあくまで政策決定の根拠であり,決めるのはあくまで人間である.リスク評価をやめれば問題が解決するものではない.その分析結果が我々の直感に反するなら,その理由を考える中で新たな意思決定の根拠や価値が明確になる.あるいは逆に今までの判断を考え直すことにもつながる.むしろ,ゼロリスク論のような原理的に不可能な論理にこだわる者も,結局は本質的な問題を捨象してしまう.鬼頭氏は社会的リンク論の提唱者として日本の伝統捕鯨の再開に理解を示しているが,その判断に反対しているのは,中西氏ではなく,ゼロリスク論者ではないか.所沢ダイオキシン問題でも同じことである.リスク管理論が本質を見失うと言うのは,これらの事実に反している.
 このようなゼロリスク論者の姿勢は,日ごろ彼らの多くが行政の説明責任を問いながら,自らの発言が「風評被害」という思わぬ(「貝割れ大根騒動」の後では十分予想されたはずだが)リスクをばら撒いたことを棚に上げ,数字を出すことが科学的と誤解し,情報開示は無条件に正しいと信仰し,反省していないように見える.説明責任は行政や権力だけでなく,私たち科学者にも,市民にもある.
 鬼頭氏はダイオキシンのリスクは人工物も自然物も同じであり,それを避けるかどうかは,その発生源とどのようにつきあっていくかという社会的リンクの問題抜きには議論できないとし(123頁など),リスク論には経済価値や生物多様性保全の原則だけでは客観的に比較衡量できない価値論の問題を避けることができない(128頁)と述べている.
 私は,この点について異論はない.経済学は現象を分析する科学であり,人間や社会があるリスクを避けるのにどの程度の費用を払うか,あるいは健康と環境など,別の次元のリスクのどちらを選んだかを分析し,リスクと経済便益の比較衡量を試みる.それは経済学として当然のことで,それでどのような意思決定を行うべきかという善悪を識別できるものではない.私たち環境科学者は,経済便益を含めたさまざまな価値とさまざまなリスクを定義し,分析する.同時に,社会が意思決定を行う際の手続きや理念,どんな情報をどのように周知し,共有するかについても分析する.分析できたものは比較衡量の対象になるが,それ以外の未知の価値が意思決定において存在することを否定するものではない.
 鬼頭氏も繰り返し述べているように,だから客観的科学的な取組みを否定しているのでも,「必ずしも,純粋に個別的で主観的なもの」(133頁)でもなく,「間主観的なものとして存在している価値」(134頁)であるという.環境政策の立案から合意形成,実施と監視に当たっては,市民参加(citizen participation)または公衆含意(public involvement)という概念が重視されるが,これは「間主観的」な価値を社会的に認める一つの手段と言えるかもしれない.
 鬼頭氏はまた,人間が自然を制御できると誤解してきたことから環境問題が出現したのではないかと説く.この誤解を「人間中心主義」(132頁)と彼は呼ぶ.自然界に「根源的な『不確実性』」があるから,「自然それ自体の論理に任せる」可能性を指摘する.これは理解できない.上記は科学万能論であり,それと人間中心主義とは別のことである.現在の科学では未解明の部分があり,その上での意思決定には誤りを含むことがあることを明確に考慮した新たな意思決定制度が求められる.これは人間と他の自然物を相対化することではない.
 環境省の定めた自然再生基本方針には,「工事等を行うことを前提とせず自然の復元力に委ねる方法も考慮」し,優先させるとは書いていないものの,受動的復元の原則が反映されている.これは不確実性とは別のことである.
 環境政策の目的は,科学的に一意的に決めることはできない.なぜならば,科学とは現象を分析するものであり,善悪を問うものではないからだ.これは,たとえ不確実性が取り除かれても解決するものではない.たとえば,自然を復元するといっても,有史以前の自然に戻そうとすることから数年前に戻すことまで,さまざまな目標が考えられる.科学は,それぞれの目標に含まれる科学的意味,その目標を達成する現実性や方策などを提案することはできる.そのために,環境政策はその立案段階から社会の合意を必要とする.これが市民参加である.
 不確実性に対する対処の一つとして,順応的管理が提案されている.これも環境政策ではすでに科学的に行われ,政策にも反映されている.順応的管理においては,ある仮説が実証される前に政策に反映され,政策の実施に当たって環境を継続的に監視し,その仮説の妥当性を検証し,必要に応じて見直す.「為すことによって学ぶ」ことで,不確実性に対処する.これは漁業管理をはじめとする多くの環境政策で,すでに実行に移されつつあり,生物多様性新国家戦略にも「予防的順応的態度」を5つの理念の一つに取り上げている.このようなやり方は,従来の演繹deductionと帰納reductionとは別のものとして捉えることができるかもしれない.しかし,要するに順応的管理とは生身の自然を相手に人体実験をすることであり,どのような実験を行うかを科学者の自由に任せることはできない.慎重な社会の合意を前提とする.すなわち市民参加は二重の意味で必要である.価値観の相違と不確実性への対処である.後者だけなら,科学者の間での合意でもよいかもしれないが,前者は利害関係者総体の合意が必要である.そして,政策立案段階から利害関係者の合意を得ることは,結果として政策実行の費用を減らすことができるという分析もある.
 最後に,鬼頭氏は「戦略的予防原則」を提唱する.リスクも予防原則も,科学的な実証を得ていない段階で適用されうる点で共通している.リスクはいかなる場合でも定義できるが,そのリスクを避けるかどうかは別の問題である.科学的な確証が得られていない時点で避けるとすれば,それは何らかの意味で予防原則の適用と考えられる.
 予防原則を際限なく適用することはできないから,「潜在的なリスクが存在すると言うしかるべき理由」があるときに限るべきであり,鬼頭氏は,しかるべき理由の基準を社会的リンク論に求めようとしている(136頁).なぜこれを「先制的な姿勢」に加えた「戦略的な対応」(137頁)と形容するのか不明であり,その基準の具体的内容もよくわからない.1992年地球サミットのリオ宣言では「地球環境に対して深刻または不可逆的影響がある」おそれに対して予防的取組みを行うと限定している.上記の社会的リンク論はこれとは異なる.なぜ「深刻または不可逆的」なものに限定してはいけないのか,本論文では明らかにされていない.
(以上)