書評 岡本裕一朗(2002)『異議あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版)

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 本書は,生命倫理学と環境倫理学を倫理学者の立場から批判しています.難解な用語は少なく,多少の専門用語は索引を探れば,そのわかりやすい定義にたどり着くことができます.倫理学という知的ゲームがこんなに面白いものだとは知りませんでした.その意味で,倫理学の入門書にもなるかもしれません.

 いくつか細かい点で納得できないところがありますが,既存の環境倫理学(そのすべてかどうかはわかりませんが)を批判されている点は明解です.けれども,だから「環境倫理学はおわり」というのはよくわかりません.むしろ「一から出直し」と思いました.

 生態学の現状に余り言及されていませんが,保全生態学者の大多数は,人間中心主義です.ですから,人間中心主義なくして自然保護なしという批判は,私は大歓迎です.アメリカ生態学会の委員会報告でも,自然保護の最大の根拠は「世代間持続可能性」です.もちろん,生態学の知見それ自身から,自然を守らねばならないことが導かれるとも主張していません.自然保護は,人間の価値観です.ぜひ,人間中心主義の立場から,環境倫理学を再構築されることを望みます.環境倫理学で,人間中心主義の視点から説く人が本当にいないのでしょうか?私が普段言っていることに通じることも多かったです.生態学自身が非人間中心主義を否定することはできないと思っていたので,今までは価値観の相違と相対化して受け止めていましたが,環境倫理学から見て否定されるということなら(当然当事者からは異論があるでしょうが,私には説得力がありました),大いに参考にさせていただきます.付け加えれば,鬼頭秀一さんやChristopher Stoneさんの「自然の権利」運動も,まさに人間と自然の関係性として捉えていて,動物の権利を主張しているのではありません.少なくとも鬼頭さんもStoneさんも捕鯨に理解を示しています. 

 168頁でヘッケルの生態学の定義を述べた後,「生物と自然環境全体がエコロジーの問題」とし,「個々のものではなく,全体を最優先するという「全体主義」が基本的な立場だ」というのはきわめて不正確です.たしかに著者が批判するエコロジー運動には全体主義の傾向があると私も思いますが,生態学が生態系の全体を議論しても,それは個々のものの集積として解析しています.個体・集団・群集という組み立てを多くの生態学の教科書が取っていることからも明らかです.

 ちょっと残念なのは213頁から始まる第6章です.環境問題に裏があることはすでにいろいろ言われていて,それ自身間違いとは思いません(拙著「環境生態学序説」にも紹介しています).しかし,長々とかき続けても,反環境本のゴシップと同じレベルになってしまいます.229ページにようやく「あらかじめ」(!)「誤解のないように注意しておきたい」として,環境問題をすべて陰謀の所産にするつもりがないこと,ここに書いた背景は原因ではないことを指摘していますが,これは第6章の始めのほうにあれば,もっとわかりやすかったと思います.陰謀を環境運動の原因としないといいつつ,見出しを見るとすべてをポーズとファッションと政治だと決め付けているように見えます.さらに, 「もちろん,ここで議論したことは生命倫理学や環境倫理学のごく一部であって」と278ページに書いていますが,こういうことは最初に書くべきです.人間中心主義の立場からの自然保護がありえることを私は知っていますから,その点は読み進めていて誤解することはありません.けれども,生命倫理に関する部分は良く知らないので,他の見方もあるかどうかで読み進める際の理解は全く違うことになるでしょう.

 たとえば112頁にある「インフォームド・コンセントは訴訟回避の技術」というような主張は,それ以外の側面の有無に全く言及していないので,この本から得た知識だけではそれが原因とは判断できません.この本は極端な主張をすると「おわりに」で宣言するのを読むまではこの主張に納得していましたが,今は少し考え直しました.

 いずれにしても,生命倫理学・環境倫理学をもうおわりと決め付けたのですから,「ごく一部」以外もとるに足るものはないと主張されているのでしょう.あえて極論を語るというのは第6章で引用されている米本昌平さんに共通していると思いますが,彼の場合(たとえば岩波新書の「地球環境問題とは何か」)は,私の心象では読者自身が冷静に判断できるように書いていると思います.それは,著者自身の主張と言うより,あくまで分析的,評論的な語調で語っているからかもしれません.本書は,私にはそうは思いません.私のような読者なら,少しでも異論を紹介したほうが,逆に説得力がまします.

 医学の世界では,いま,延命させることが唯一絶対の善という考えを見直しつつあると思います.ここで紹介されている生命倫理学では,そのような見直しが見えません.生態学では,生物は生きようとするが,いつか死ぬものであることは自明です.不自然な形で延命させることを善として延々と議論しているのは,腑に落ちません.私には,何が不自然で何が自然な死なのか,また不自然な延命がどこまで推奨・許容されるのか,答えがあるわけではありません.しかし,もっと大事な問いかけがあるのではないでしょうか?

 81頁に臓器不足を根拠に臓器売買の妥当性を主張していますが,臓器不足ではいけないのですか?また,提供者を増やす方法(あるいは受け手を減らす方法)は売買だけではないと思います.現在は,ドナーカード登録をしない人でも臓器を受取れるのですか?たとえば,以前の日本の献血制度は知人(の知人)に大量輸血が必要な患者がいれば,皆で献血しました.臓器で同じことはできないでしょうが(血液型と違い,免疫適合性がある),たとえば支援グループがドナー登録者を1000人獲得したことを受け手の条件とするようなやり方も考えられるはずです.

 87頁に自殺幇助が悪くないという主張と青酸カリの提供は悪くないという主張を同列に扱っていますが,これは疑問です.自殺の方法はさまざまあり,誰でも自殺は技術的にできます.ところが,青酸カリは誰でも持てるようにはしていません.自殺に関する自己決定権と劇物を誰でももてるようにすることは別問題です.たとえば,劇物毒物の取締法に(もし今ないとすれば)自殺の道具に使ってはいけないとしてもよいはずです.

 152頁にシンガーの主張では昆虫は苦痛を感じないとあります.著者への批判ではありませんが,何を根拠にしているのでしょうか.昆虫は神経系を持っています.生物学関係のいくつかの学術雑誌の投稿規程では,昆虫なども含めて,できるだけ無駄で苦痛を伴う殺生をしないような倫理規定があります.

 154-157頁にかけての「動物の権利」批判はたいへん説得力がありました.人種差別や性差別を撤廃するときに,黒人や女性も人間として道徳的な行為主体(agent)とみなすのに対し,動物はあくまで「道徳的行為が行われる」行為対象(patient)にすぎないというのは明解です.ただし,patientという表現はかなり奇異に感じます.道徳的な行為対象をどこまで広げるかは法で定めるべきものではなく,個人の価値観の問題だと私は思います.

 196頁のローマクラブ報告が「ゼロ成長主義」を唱え,これが「現在の秩序の永遠化」という側面があり(必ずしも原因ではない),ゲームで一人勝ちした人がもうゲームはやめようと宣言するようなものというのもその通りだと思います.

 200頁 「先進国の一人の生活は発展途上国の数十人分に値する,とも言われている」とありますが,出典がありません.生態学的足跡という最も有名な指標では,米国人は低収入国人の約10倍です.他の日欧諸国はその半分くらいですから,先進国全体ではさらに低くなります.

 217ページに昔寒冷化,今温暖化を問題にしているのが政治操作のような印象を受けましたが,環境がdecadal changeするのは海洋(地球)科学の常識です.十年規模の気候変化がずっと続くと仮定して地球環境問題を議論するのは間違いですが,科学や地球観測データ自身が捏造されたものではありません.

Christensen NL and 12 co-authors (1996) The report of the Ecological Society of America Committee on the Scientific Basis for Ecosystem Management. Ecol. Appl. 6:665-691.
Christopher D. Stone (2001) Summing Up: Whaling and Its Critics, In "Towards a sustainable whaling regime" (Ed. Robert L. Friedheim), University of Washington Press, Seattle and London, pp269-291.
鬼頭秀一(1996)『自然保護を問いなおす』筑摩新書