屋久島の生態系にはいま、異変が起きています。ヤクシカの個体数が増加し、その結果ヤクシカの摂食によって、林床植生が急速に失われています。かつて、小杉谷のスギ林の林床には、足の踏み場もないほど、シダ植物が群生していました。しかし、今では、林床植生はほとんど失われ、その結果、場所によっては表土の流出が顕在化しています。トロッコ軌道沿いに群生していたホソバショリマは消失しました。日本では屋久島のウイルソン株付近にだけ自生していたコモチイヌワラビも、絶滅したものと思われます。かつて普通に見られた屋久島固有種ヤクシマタニイヌワラビは、まだ小さな株が残っていますが、絶滅寸前の状態です。
このような異変は、なぜ起きたのでしょうか。ヤクシカは、古くから屋久島に棲む動物であり、ヤクシカと植生の間には、何らかの長期的なバランスが保たれてきたものと考えられます。このようなバランスは、なぜ崩れたのでしょうか。一つには、林業による伐採地の拡大・林道の拡張により、一時的に餌場が増え、また移動が容易になったことの影響が考えられます。また、地球温暖化による冬季の死亡率の減少が影響しているかもしれません。さらに、小杉谷などの集落が消失し、集落周辺での人間
による狩猟圧が減少したことが影響しているかもしれません。原因は確定できませんが、いま屋久島の生態系が、急速に大きな変化を遂げつつあることは事実です。
このような異変は、やがてもとに戻るのでしょうか。少なくとも、種の絶滅が起きれば、それを回復することは不可能です。絶滅したと思われるコモチイヌワラビをもういちど屋久島によみがえらせることはできません。
また、生態系の変化は、しばしば不可逆的であることが知られています。ヤクシカの場合、ある程度増えれば、やがて減少して安定するという見方もあります。しかし私は、個体数がさらに増えた状態が持続するのではないかと危惧しています。異変の背景に、拡張された林道、冬季の温暖化など、不可逆的な環境変化が起きているからです。
私は、約20年前に屋久島の植物の研究を行い、1987年に屋久島の固有植物の分類に関する論文をまとめた経験があります。ハナヤマツルリンドウやヤクシマシソバタツナミを発見し、新種・新変種として発表したのも、このときです。この研究を通じて、屋久島の植物の豊かさに心を奪われ、いずれまた屋久島で研究してみたいと思っていました。その屋久島の植物が、ヤクシカの摂食によって急速に失われている事実を知り、何もしないではいられなくなりました。
ヤクシカの摂食によっていくつかの植物種が絶滅危惧状態にあることは、1997年に環境庁植物レッドリストをまとめた時点ではじめて知りました。2000年に環境庁植物レッドデータブックを出版した時点では、事態が予想以上に深刻であると考えるようになりました。その後、ヤクタネゴヨウの保護増殖事業に関わり、2002年に屋久島を訪問し、花山原生自然保護区内でもヤクシカの摂食で林床植生が失われていることを知り、早急な対策が必要であると考えるに至りました。
そこで、2003年に環境省と九州大学に対して研究費の申請を行いました。幸い、いずれの申請も採択され、今年から3年間かけて、屋久島の植物とヤクシカの関係について、総合的な調査を実施できることになりました。環境省・九州大学の予算はいずれも、屋久島だけに限定したものではありませんが、ケーススタディを行う3つのモデル地域の一つとして、屋久島をとりあげています。
屋久島での3年間の研究では、以下のような目標を掲げています。
(1)現状を科学的に明らかにすること。ヤクシカがどの程度増えているのか、ヤクシカの摂食が植物の絶滅リスクをどの程度高めているのか、林床植生の減少が昆虫や陸棲貝類にどのように影響しているのか、などについて調査します。また、基礎データとして、屋久島に生育する植物・昆虫・陸棲貝類の分布を詳細に調査します。
(2)絶滅が危惧される種に対する緊急対策。具体的には、防護柵を設置し、その効果を調べます。
(3)この問題に関心を持つ方々との合意形成。屋久島で起きている生態系異変への対策を考える場合には、科学者・島民・行政が議論を重ね、対策について合意形成をはかる必要があります。シカの増加とそれにともなう植生の消失は全国で起きており、いくつかの自治体では駆除による対策を実施しています。しかし一方で、駆除を実施した地域からシカが他の地域へ移動し、移動先での植生の消失という新たな問題を起こしている事例もあります。シカの駆除をめぐっては、シカを大切に思う立場からの批判もあり、ともすれば感情的な対立を生みかねない問題です。このような問題を、感情的にならずに解決していく道筋を考えたいと思います。
科学はもともと、(1)であげたような問題について、十分な証拠を集めて、解決していく作業です。しかし、生態系異変・種の絶滅といった問題については、研究を重ね、答えがわかった時点では、対策が手遅れになるかもしれません。そこで、対策をとりながら調査研究を進めるという、「順応管理」と呼ばれる方法が注目されるようになってきました。この方法を採用する場合には、「どのような対策をとるか」について、「合意形成」が必要になります。目標(3)は、このような「合意形成」のあり方を探ることを意図したものです。
このような研究を進めるうえでは、屋久島の自然を大切に思い、さまざまな努力を重ねられている方々との対話が欠かせません。みなさまの率直なご意見を伺い、忌憚のないご批判をいただきながら、研究を進めていきたいと思います。そのための、顔合わせの会を、下記の日程で開催したいと計画おります。ぜひご参加くださいますよう、お願いもうしあげます。
矢原徹一(やはらてつかず) 九州大学大学院理学研究院生物科学部門 教授 理学博士。1954年生まれ。
進化生物学が専門。植物系統分類学、集団遺伝学、分子進化学、進化生物学など様々なアプローチを総合して植物の「性の進化」に関する研究を行なう。日本植物分類学会絶滅危惧植物問題専門委員会委員長として、環境省版植物レッドデータブックの編集責任にあたる。著書に「保全生態学入門」(共著文一総合出版)、「花の性 その進化を探る」(東京大学出版会)、遺伝別冊「適応」(共編著裳華房)、「レッドデータプランツ」(山と渓谷社)等多数。
矢原徹一さんを囲む集いへのお誘い ――― 帰ってきた矢原徹一 一―――
矢原さんは今年より3年間に渡る新しいプロジェクトを屋久島で立ち上げました。20年前、集中した屋久島の植生調査研究により屋久島の植物相を明らかにする成果をあげ、その後環境省が2000年に発表した「日本版レッドデータブック」植物Tの責任編集を行い今では日本の保全生態学の第一人者として積極的な発言と活動をされています。その矢原さんが屋久島の生態系に起きつつある状況を見過ごせず、屋久島の島民の人達と一緒にその課題を語らい情報を交換し、住民、行政、研究者間の相互理解を基に問題を解決していこうという取り組みをスタートさせました。
貴重な屋久島の生態系の一員を一種も欠かすことなく、後世に残せていけるよう、屋久島の将来的な生態系保全の道しるべとなる、その最初の一歩となる集いになればと願っています。
今回は皆さんの関心、興味の範囲で肩肘張らないザックバランな集まりにしたいと思います。ご参集くださいますようよろしくお願いいたします。
手塚賢至(矢原プロジェクト現地世話人・ヤクタネゴヨウ調査隊・代表)