目から鱗を落とすBSEの本

池田正行(2002)『食のリスクを問いなおす』(筑摩書房)

2004年7月23日初版掲載

 この本が出版されてから2年が経った.しかし,この本に書かれていることは現在ますます値打ちが上がっている.今こそ,読者にこの本を薦める.今にしてわかることは多々ある.発覚前から日本でもBSE発症牛が現れると心配していたのは著者の池田氏である.最も冷静に(結果論としても妥当な)日本におけるBSE発症予測をしていたのも池田氏である.BSE問題がまだ解決していないことは,牛肉の消費量がBSE騒動前の水準に回復していない(196頁)ことからもわかる.本書は,将来どのように解決するかの道標を示している.すなわち,本書の価値は出版したときより今のほうが上がり,今後さらに上がるだろう.
 今ならわかる鳥インフルエンザ問題と全頭検査撤廃問題が,この本では2年前に予見されている.また,プリオン病がどうして起こるかがわかりやすく説明されている.さすがは神経内科医である.日本におけるBSE発生頭数を2001年10月時点のテレビ番組で100頭未満と予想し,人間における変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)の発症者数を0.001人!と予想したという(155頁).当時私も彼の試算も参考にして統計学的にせいぜい数十人から200人未満と予想したが,現在でも,彼のBSE発生予想頭数は十分説得力がある数字だ.
 細かい部分には末尾のような異論もあるが,全体として,言いたいことがよくわかる.読んでいる間に納得できないところがあっても,読み終われば,多くの読者が主張の根幹を理解することだろう.一つ一つの根拠と言う名の部品が,最初はばらばらに見えるが,読み進めるうちに相互に繋がり,最後には一つの交響曲となって読者の胸に響くことだろう.時折入る「やくざ」という言葉の雑音が少し耳障りかもしれないが.
 この本の第一の特徴は,いわゆる食品のリスクの医学・生物学的評価の解説ではなく,現実にトラブルが起こる最悪の状況を想定し,行政,生産者,消費者がそれにどう備えるかを実践的に説いていることだ.すなわち,食品の危機管理そのものを議論している(86頁など).風評被害が非科学的なものであれ,それが現実に起こったときにどう対処するかも含めて書いている.これは,不正確な報道をするマスコミが悪いというだけの評論とは全く異なる.そして,今後の行政と企業の環境・健康リスク管理を考える上でも大いに参考になる.多くを学ばせていただいた.
 たとえば,2001年9月10日のBSE国内感染第一例が出たあとに,農水省が安全宣言を出したことを,逆効果だったと実践的に批判している(89頁).BSE発生前に予見した役人は多かったのに,それを指摘できなかったのは,国民の非難を浴びる危険をあえて指摘することができないからだという(67頁).それでも,BSE発生前に対策を打ち出す二度の機会があったという(70頁).安全宣言とは国民が考えるようなもうBSEが出てこないと言う宣言ではなく,これからどんどん見つけていくという宣言だったというのは,わかりやすい.
 また,BSEが極度に警戒されたことを批判しつつも,極度に不安を与えやすい要素を6つ挙げている(115頁).@リスクが感染症や中毒であり,A空気・水・食品・対人接触が媒介し,B治療法未確立の死に至る病であり,C脳に障害が起き,D加熱冷凍などの一般的手段で除去できず,Eリスク回避の手軽な代替手段(牛から豚肉に変える)がある.BSEはこれらすべてを満たしていると言う.それには,病原体や寄生虫と人間が共存していた昔とは違う現在の清潔ファシズムとも言うべき風潮(116頁)が拍車をかけていると説く.
 第二の特徴は,単に役所を批判するのでも,擁護するのでもなく,よりよい行政を作るために何をしたか,何をすべきかを説いていることだ.「納税者は役所を教育しなければならない」(80頁)し,子育てと同じで,行政が「うまくできたら褒めてやる」(81頁)べきだと述べている.全く同感だ.自分が正しいと自己満足の主張をするだけならその必要はないが,少しでも世の中をよくしようと思うなら,この姿勢は欠かせない.行政は完全ではないから,褒めたら自分も泥をかぶることになる.環境学者には二通りあることがわかる.行政を批判するか弁護するかではない.これらはいずれも専門知識を披露してしたり顔で意見するだけの評論家にすぎない.ときには行政と,ときには市民と連携して世直しに努め,しばしば反対者からこき下ろされる実践家こそ重要だ.中西準子氏と同様,著者も間違いなく後者に属する.私もそれを目指している.
 農水省の会議では資料を配って説明するだけで,反対意見も批判も出ない.恐怖政治が横行しているからではない.出席者は集団無責任体制で,自分の出席している会議が,日本の畜産業の命運を担っているとは,夢にも思っていない.彼が描くこの農水省の構図(74頁)は,悲しいほどに当たっていると思う.もちろん,ほとんどの会議は何かしら意思決定をしている.しかし,日本の命運を長期戦略を持って自らの責任において動かそうと言う気概を感じることはたしかに少ない.少ないが,我々科学者の意見を受け止めて(あるいは利用して)大きく政策の舵を切ろうとする役人もいる.私のような札付きの者を委員に加える最近の委員会は,だいたいそうである.逆に言えば,学者が主体的に解決策を探して意見を言えば,役人もそれなりに考えてくれるはずである.著者はそんな泣き言を言うタイプではないが,役人が無気力だから自分の見識が活かされないと愚痴る科学委員もおかしい.まず,必死に時間を惜しまず説いてみることだ.本当に期待薄なら,自分を推挙してくれた人に詫びを入れ,機会を見て辞めてしまうほうが,自分の労力と時間のためにも効率的だ.
 著者は自分のことを「やくざ」と表現しているが(82頁),それを言うなら「学者」である.彼が学者とやくざを一緒にするのはたいへん残念だが,波風立てず体制に配慮する,組織を背負った役人や企業人の態度とは明らかに違い,言うべきことを率直に言うタイプの人のようだ.「率直」のやり方には私でさえついていけないところもある.2001年9.10の国内BSE牛発覚よりも前にその危険性を指摘してきた著者は「非国民」または「テロリスト」だったが,その後牛肉を食べない人のほうを「病気だと言い放った」という(137頁).9.10前に危険性を主張するのも,その後に冷静な対応を呼びかけるのも全く正しい態度だと敬服するが,このような表現は多くの読者を無用に遠ざけてしまうだろう.
 けれども,言うべきことを言うのはガリレオ・ガリレイに繋がる学者としてのあるべき姿の一つである.そして,語弊を恐れずにいえば,ろくな科学的根拠もなしに言葉だけ医学用語を振り回すいわゆる「変な医者」とは異なり,科学的知識と関連する学術論文の結果を自ら読み解いた理解のうえで主張しているように見える.
 たとえば,2001年から2002年にかけてNatureやScienceに載った英国のvCJD患者の発生数を最大15万人と予測した論文の根拠を病理学的に否定し,英国でせいぜい数千人あるいは数百人未満というより現実的な予測値の論文を紹介している(37-40頁).そもそもBSEが人に感染するかどうかさえ,まだ実証例がないという(42頁).この最後の点については今後の研究結果を待ちたいが,注目すべきは,著者がこれによりBSEからvCJDにかからないと断じるのではなく,かかったとしても非常に低い確率であることを主張している点だ.つまり,つねに最悪の筋書きを考えて慎重にリスク評価していることがわかる.
 リスクの読み解き能力(literacy)を教育するには,@ゼロリスクはないと理解し,Aリスクと便益の両方を考える必要があることを知り,Bリスクについて不確実性は避けられないことを知ることが重要だと述べている(157頁).まさにその通りである.しかし,著者はさらに先を説いていると思う.リスクは避けられないから仕方なく付き合うものではなく,リスクと付き合うこと自身が人間の生き様の根本であることを知ることが重要なのである.著者によれば,(食の)リスクとつきあう上で最大の問題はパターナリズム(お任せ主義)である(184頁).そして,生産者の情報を消費者が正確に判断し,自らの食生活を選ぶ「食のインフォームドコンセント」の確立が,彼の結論である(187頁).
 リスクというものは,たしかに差別と同じで,「寝た子を起こすな」というべき,つまりあえて議論しなければ大きな問題にならないところがある.リスクに備えると社会的な損害が生じるかに見える(146頁).だから,リスク管理の費用を誰が負担するかが問題になる(165頁).たとえば,火山噴火や地震に備えると観光客が来なくなる.しかもそのリスクは予測困難であり,かつ多くの人命にかかわるハザードが大きなリスクである.しかしこれは何事もないときとの比較であり,もしものときが起きる確率と,そのときの損失を考慮して損得を議論すべきものである.リスクに備えずにあとで重篤な事態を引き起こすのと,何もないときに備えて日常的に出費を重ねることを天秤にかけねばならない.
 リスク開示の損失は経済的出費だけではない.リスクを開示すると,開示後の情報が変質すると言う新たなリスクを生み,リスク開示自身による損害の責任を開示者が問われ,攻撃されるおそれがある(168頁).特に行政が慎重になるのは,間違ったリスク開示で被害を招いても,1996年の貝割れ大根のように国が犯せば有罪になるが,その後の1999年の所沢ダイオキシン風評被害のようにマスコミが犯しても無罪になっている(171頁).
 「安全はただではない」と彼はいう(166頁).その通りである.そこでハタと考えてしまったが,「安心を買う」と言う表現あるいは意識は間違いかもしれない.人間は不安と背中合わせに生きるほうが本来の姿であり,あるべき姿なのだろう.保険を買うということは不安があることを意識していることである.保険は経済的損失を補填できても,事故がない状態に戻るわけではない.愛する人を失うことも,情熱をかけた事業が失敗することもある.保険金を貰えるというだけで不安がなくなるわけではない.リスクと付き合うとは,不安を持ち続けることであり,不安をなくすことではない.リスクに備えて納得することはできるかもしれないが,安心することはできないだろう.
 食のインフォームドコンセントとは,食のリスクがなくなるということではない.リスクがなくなることを目指す行為を,彼は「ゼロリスク探求症候群」と呼ぶ(112頁).この症状は,@ゼロリスクを求めることが可能であり,求めることに正義があると錯覚し,Aゼロリスクを求めることがリスクを振りまくとされる者への差別を煽り,風評被害の加害者となることを忘れるという特徴をもつという.差別とは大げさと思ったが,現に,vCJDの危険性を理由に,米国および日本の厚労省は1980年以降に英国などに通算半年以上滞在した者の献血と臓器移植を禁止していると言う(124,135頁).たしかに,環境団体の振る舞いを現代の魔女狩り運動に似ていると感じることは多々ある.
 さらに,BSEにおけるゼロリスク探求は,結局は役所いじめではなく,牛肉関連業者いじめにしかなっていないという(130頁).これは私も感じるところだ.環境運動は人間らしさを取り戻すための運動だと思っていたが,今まで世話になってきた人々を,ほんの少しのリスクを理由に平気で失業の憂き目にあわせようとする.食中毒のリスクはつねにある.喫煙すれば隣人にそれ以上の死亡リスクを強いているし,車を運転すれば自分が死ぬリスクだけでなく,無関係の歩行者などを死なせてしまうリスクも,BSEよりはるかに高いはずだ.マスコミの誤報で関係者が迷惑を被るリスクも,教育者の不注意で学生が一生を誤るリスクも,BSEより高いことだろう.ゼロリスク論は,社会に生きていけば,人を助けることもあるが危険にさらすこともあるという死生観の根本を忘れている.これでは人間らしさを取り戻すどころか,ますます不自然になることだろう.
 逆に,肉屋が「お前がやってる店の牛肉だから大丈夫なんだろう」と常連客に言われた場合もあったという(188頁).阪神大震災のときも行政の失政は多々あったが,ボランティアの人々は,失政と被害は別と考えて活動した(196頁).それができた日本人が,BSEではなぜ行政を非難するばかりで食生活を普通の状態に戻せなかったのだろうか.というのは,まさにリスク問題の正鵠を射ていると思う.

以下は細かいことである.
 日本の食料自給率が4割で世界中からごまかそうとする人がいることを理由に,食品の生産流通の追跡制度(traceability)を求めることを批判しているが(11頁),追跡制度はけっしてゼロリスクを求めているのではない.ある程度ごまかす人の割合が低くないと無効なのはたしかだろうが,むしろ輸入業者ならびに消費者に信頼できる食品を峻別することができる.林産物認証制度(FSC)や海産物認証制度(MSC)は消費者に選択させる試みであり,責任ある漁業推進機構(OPRT)は漁業国を選別する試みである.また,絶滅危惧生物の国際商取引を規制するワシントン条約においては,ゼロリスク論者こそごまかす人がいるからつねに全面禁止を求めていて,条約事務局や日本政府は,むしろ管理下で貿易するほうが種の保全上の利益になる場合があると主張している.
 23頁4行目 抵抗性である → 抵抗性がある