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保全生態学研究を生態学会に移行する際のおもな議論についてはすでに紹介した (松田 2003:保全生態学研究8:1-2).学会は研究者の自由な連合体であり,応用科学をや ってはいけないとか,流行分野の参加者に遠慮しろと執行部が介入すべきではない. 保全生態学を含む環境科学には,「多元的な価値観をもつ社会が科学的に不確実な情報の下で意思決定する新たな手法に関する科学的研究」が欠かせず,生態学はそれに 貢献すべきである.ただし,要望書の出し方などについては,議論する価値があるだ ろう.社会に関与すべきでないとは思わないが,科学的根拠を解明して社会に発信す ることが本学会の使命である.
Seek simplicity, but distrust it --- Begon Harper & Townsend (1986) "Ecology: Individuals, Populations and Communities"
この本を手にした学生諸君に望みたい.まず,「応用」生態学と「基礎」生態学との間に明確な区別をつけないで欲しい.基礎生態学とは応用生態学が依って立つべき土台である.何か差し迫った問題への対処に,現在使える知見の最良のものの助けを借りずに何かを提案することは,何もしないのと同じくらい無責任である.従って,ある意味では,この本全体が「応用」生態学を扱っているとも言える.扱っている問題それ自体か,あるいはそうした問題を解決するのに必須の理解を積み上げることを目指しているからである.一方で,私たちが諸君に期待することは,できるだけ多くの人たちが,私たちと同様,生態学が魅力に富むが故に,世界を生態学的に理解したいという情熱を抱いてくれることである.生態学は充分その期待に答えてくれると確信している. ---Begon Harper & Townsend (2003)「生態学」日本語版への序文
シンポでの私の持ち時間を5分(討論を除く)としたので,ここに補足意見を述べる.以下はシンポ企画者などで行ったメール討論に基づいているが,抜粋や構成は私が行ったものであり,文責は私にある.お気づきの点があればご指摘ください.
★保全生態学は生態学か?自然科学か?科学か?
「複雑極まりない我々社会の緒要素とのトレードオフ構造を網羅した意志決定モデルを構築することになろう・・・私には保全生物学の議論や主張は,この手続きをふんでいるようには思えない。したがって,これらは自然科学の範疇にないと考える。」
松田▲このような意思決定モデルは社会科学の範疇であり,自然科学ではありません.これは水産学ではmanagement
procedureと呼ばれる範疇で,環境科学全般で合意形成の手続きに関する科学的検討が進んでいます.目的を科学的に一意的に決められないこと(ご指摘どおり,これは価値観に関わります)は科学的に合意されています.(松田2004「ゼロからわかる生態学」共立出版)
特に国際的に対立する漁業交渉のような場所では,どんなデータが将来得られたらどう状態を推定し,どう対処するかを含めたoperating
modelというものが提唱され,実際の国際交渉の科学委員会で使われています.
したがって,「この手続きを踏んで」いないという指摘には反論します.社会科学の範疇を含む点は同意します.
そのような内容の研究発表を自然科学の学会である生態学会で発表することはかまわないと思います.
科学というものは複合的なものであり,生態学的な内容を含まないものは生態学会にそぐわないでしょうが,それを含むものであれば,社会科学の範疇を含むものでも排除すべきではないと私は思います.
★保全生態学ならびに自然保護の論拠は科学的に確立されているか?
松田▲ 科学はつねに発展途上である.たとえば「予防原則」とは,(保全)生態学がまだ生態系の機能を十分説明できていないし,その保全の仕方も十分わかっていないからこそ適用される.そして,その適用基準自身も社会的に合意されていない.
未熟な科学だからこそ,基礎科学に根ざした生態学会での議論が必要なのである.
私は「役に立つ」という価値の視点だけで保全を議論するのが危ういと思うからこそ,保全を生態学会の一分野として取り組むべきだと思っています.危ういテーマは学会の外で議論してくれという態度には,賛成できません.
★真偽(科学的命題)と善悪(自然保護など価値に関すること)は区別すべきである
松田▲その通りです.以下のような原稿を準備中です.
”(自然保護の主張)の中には,生態学的客観的に真偽が検証できる命題と,人間のある価値観に基づく主張が混在していることに注意すべきである.これは,本稿全体に共通する.すなわち,保全生態学とは「保全」という「価値」を理念として含んだ、新しい自然科学であることに注意すべきである.生物多様性が急速に失われていると言う現象は客観的命題であり,人間の生活にとって自然から受ける何らかの恵みが必要であるということも,具体的な生活と恵みの関係を特定すれば客観的に証明できる命題である.けれども,自然と人間の関係を持続可能な関係に維持すべきであるという主張は人間のある価値観に基づいており,客観的命題ではない.そして,持続可能性を目指すという価値観を前提として,その目的を達成するための方途や理念を客観的に追究する科学が保全生態学である.すなわち,「もしも人間と生態系の持続可能な関係を目指すならば」という価値に基づく前提をつけて初めて客観的な命題を議論することができる.”
平川●一つはっきり気になった表現が保全生態学会誌の序文にありました。確か、そこに「生態学的に好ましい」という表現があったように思います。
松田▲ 以下の文言ですね.【松田裕之(2003保全生態学研究8:1-2)生態系管理委員会設置趣旨について】
”結局,「(過去に損なわれた自然環境の修復に大きく寄与するという自然再生推進法の)意図自体は,生態学的に見て好ましいもの」であり,「この法律に基づく自然再生事業について,行政や関連諸学会による対応が進行している現状においては,日本生態学会として,自然再生の理念,目標,手法,技術などについて,生態学の立場から検討を加えることを急がねばならない」(前掲設置趣旨)という認識”
ご指摘どおりかと思います.ここは「自然保護の上で好ましいもの」でよかったと私は思います.何度も言うとおり,私自身もときどき間違えます.真偽と価値を区別して議論することに我々はまだまだ不慣れであり,その必要性を認識している生態学者さえそれほど多くなく,行政官や自然保護活動家にも少ないでしょう.
★究極的な目的としての保全を評価する指標は存在しないか?
”だから我々は無意識に,振舞いの対象である自然の側にまず究極的な目的変数の代替指標となりうるような単位を捜すのかも知れない。・・・しかし平川氏の一連の論考でも明らかなように,「生物多様性」は目的変数として用いることのできるようなものではない。”
平川●生物世界の多様性をどう(計量可能なものとして)定義したとしても、我々の価値観にそうものにはなりえない。つまり、我々の保全の価値観は、計量可能なものとして定義されたある多様性の尺度を高めればよいと言うことにはならない、だから、「生物多様性」を計量概念として捉えるのが適切でないというのが、私の主張です。
平川●客観的な指標が必要かどうかの議論と、「生物多様性」概念を生態学的「多様度」概念と同じものとして用いて良いかどうか、というのは別の議論ですね。ここでまさに、価値が絡む保全概念と科学が扱う事実概念の混同が生じているのではないでしょうか
矢原■概念論争は、計量的な尺度が導入され、操作主義的な定義が研究者
の間で広く支持されない限り、解決しません。「ニッチ」や「種」をめぐる論争の歴
史がそれを証明しています。
平川●多くの人が「生物多様性」を計量可能なものとして捉え、しかもこれを短絡的
に運動論に結びつけた結果、きわめて奇妙な議論が横行することになった。すなわ
ち、「多様度の高い自然が価値が高い(重要だ)」と言う議論である。(中略) こうした議論のどこがおかしいのだろうか。それは、こうした議論には中身につい
ての情報がまったく欠落していることである。たとえば、植物の種数が二つの土地で
同じだったとしても、その組成はまったく同じ場合からまったく異なる場合まであり
うる。ところが多様度はそれについて何も語らない。数値だけで中身を抜きにした保
全論議・価値論議にはまったく意味がない。
矢原■「中身」を語るには、2つの方法があります。「中身」を科学の方法で記述するこ
と。(中略)これが、科学者が通常採用する方法です。(中略)もうひとつの方法として、「中身」を写真や絵画、詩やエッセイで描いて、感性にアピールする方法があります。
「中身」がさまざまである以上、単一の尺度で測るのは適切ではありません。しか
し、だからといって、「尺度を入れたから議論が混乱した」と主張するのは無理があ
ります。「生物多様性」についての議論が絶えない理由のひとつは、そもそもの「中身」の複
雑【さ】にあるでしょう。研究者が「生物多様性」を計量しようとしたことに罪をきせるの
は、筋違いだと思います。
多様性が高いほど良いという考えは必ずしも適切でない、という点は、私も
平川さんと同じ意見です。ほとんどの生態学者がこの意見に同意すると思います。し
かし、(中略)平川さんは、この常識的な意見を 主張するにあたり、計量化という科学の基本的方法に罪をきせてしまっています。こ
の点には、私は同意できません。
平川●私は「生物多様性の保全」を巡る混乱の原因について「計量化という科学の基本的方法に罪をきせて」はいません。包括的な保全概念としての「生物多様性」と、生態学に従来からあった科学概念として計量可能な「多様性」(つまり「多様度」)は別物であり、この両者を混同してはいけないと主張しています。
★学会が開発などの社会的問題に要望書を出すことはよいことか?
松田▲ 学会が要望書や意見書を出すことの是非については,保全生態学の科学としての未熟さ,学会内で大きく扱うべきかどうかとは別の問題です.進化学会が高校教科書における進化教育の必要性を訴えるのも,物理学会が原発の安全性に疑義を主張するのも,同じことだと思います.
私は,今のところ提言することをやめるべきだとは思いません.しかし,その役割や,提言の際のルールなどは議論してもよいと思っています.少なくとも,学会を自然保護団体と混同しているような文章が学会誌に寄せられないように,「行政や環境団体とは独立した科学的視点から問題の所在を明らかにし,責任ある助言を行うことが重要であろう」と,保全生態学研究でも注意したつもりです.
他方,生態学者として社会的に貢献することは,生態学会としても積極的に支援すべきだと思います.自然再生法に対する学会としての対処としては,「この法律に基づく自然再生事業について,行政や関連諸学会による対応が進行している現状においては,日本生態学会として,自然再生の理念,目標,手法,技術などについて,生態学の立場から検討を加えることを急がねばならない」という認識で生態系管理専門委員会が作られました(松田2003保全生態学研究8:1-2).あくまで,科学的にこれらの社会問題にコミットすることが学会の使命です.会員個人が個別に対応するだけでは,自然再生推進法の第3
条に「自然再生は,地域における自然環境の特性,自然の復元力及び生態系の微妙な均衡を踏まえて,かつ,科学的知見に基づいて実施されなければならない」とせっかく専門家の関与が記されているのに,「多くの現場で,生態学者以外の専門家が助言しているのが現実である」ことを変えることはできないでしょう.
「保全(=技術)が残って,生態学(=純粋科学)が滅びる」ことのないように,私は応用系の学会ではなく,あくまで生態学会内部で保全の研究を進めることを提案してきたつもりです.
”例えば,「ある生物の個体数が減る原因と仕組みを追求すること,あるいはそれらを元に個体群の将来的な絶滅確率を扱うこと」と,「その生物を絶滅しないように『すべき』と主張する」ことは,全く異なる”というのはその通りです。これはどしどし主張してください.自分でも間違えることがないとはいえません.「絶滅リスクを十分下げるためには」「ある保全策が必要である」というのが科学論文としての保全生態学の書き方でしょう.それは経済学でも法学でも同じことだと思います.
★環境倫理学論争について
書評 岡本裕一朗(2002)『異議あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版)
松田△ いくつか細かい点で納得できないところがありますが,既存の環境倫理学(そのすべてかどうかはわかりませんが)を批判されている点は明解です.けれども,だから「環境倫理学はおわり」というのはよくわかりません.むしろ「一から出直し」と思いました.
生態学の現状に余り言及されていませんが,保全生態学者の大多数は,人間中心主義です.ですから,人間中心主義なくして自然保護なしという批判は,私は大歓迎です.アメリカ生態学会の委員会報告でも,自然保護の最大の根拠は「世代間持続可能性」です.http://risk.kan.ynu.ac.jp/matsuda/kankyo/ESAreport.html
http://www.esa.org/pao/esaPositions/Papers/
もちろん,生態学の知見それ自身から,自然を守らねばならないことが導かれるとも主張していません.自然保護は,人間の価値観です.ぜひ,人間中心主義の立場から,環境倫理学を再構築されることを望みます.環境倫理学で,人間中心主義の視点から説く人が本当にいないのでしょうか?(中略)付け加えれば,鬼頭秀一さんやCristferStoneさんの「自然の権利」運動も,まさに人間と自然の関係性として捉えていて,動物の権利を主張しているのではありません.少なくとも鬼頭さんもStoneさんも捕鯨に理解を示しています.
(以上,シンポ企画者,講演者などとのメール交換より抜粋)
★「合意形成」のプロセスは科学の範疇にあるのか?
(1)政策上の合意形成は、それ自体は科学そのものではない。 (良し悪し、善悪
で判断する価値的命題)
(2)しかし、そのプロセスに科学的分析・予測(真偽で判断する科学的命題)など
が絡むのであれば、合意形成に至る過程全体としては、科学の関与は重要であり、必
須となる。
(3)よって、科学的分析・予測に基づいてどのように合理的な合意形成を行うかに
ついて議論し、理解を深めておくことは、科学者集団としての日本生態学会にとって
は、非常に大切な態度である。
(4)日本生態学会は、自然科学としての生態学が全く関係しないような問題(年金
問題に関する自民党の政策批判)にはタッチする必要はないが、生態学が関係する科
学的問題 (例:日本の人口動態や年齢別人口の推移モデルとしてLeslie行列を適用
した分析を行うこと。これは年金掛け金の徴収と配当金の基礎理論となる)
が研究発表されるのはかまわない。
(5)科学的な分析・予測にもとづいてなされた合理的判断の結果として、世の中の
政策に対して日本生態学会が声明や要望書を出すのは、十分に科学的根拠があって、
自然科学の学会活動としても妥当であると考える。
松田▲: 質問の趣旨は,その過程が科学の対象かどうかという意味だと思います.適当なサイトを検索しました.
たとえば,日本公共政策学会2003 年度研究大会第15
セッション「環境問題におけるリスク・コミュニケーション」の平川秀幸氏「不確実性・価値・公共性をめぐるリスクコミュニケーションの諸問題―
リスクガバナンスの非公共化に抗して―」をご覧になれば,regulatory
science(私は保全生態学研究2003で行政科学と訳しましたが,規制科学のほうが一般的な訳語のようです)というものが合意形成過程をどのように捉えているかがわかります.このような検討そのものが【社会】科学の範疇だと私は思います.
ちなみに,私はrisk/benefit分析を奨励しているので,上記著者とは見解が違います.ただ,上記平川秀幸氏のサイトに載っている遺伝子組み換え生物(GMO)の例については,表1はともかくそれ以外は私の見解にかなり近いと感じました.
いずれにしても,regulatory scienceのサイトを見る限り,合意形成過程そのものを科学的に検討するだけでなく,その過程の中で(通常の自然科学および経済学による)科学的見解がどのように反映されるか(逆に科学者だけで決めてはなぜいけないか)を議論しているようです.
したがって,上記の(1)−(5)でよいと思います.この場合の「科学」は「規制科学」の意味ではなく,通常の「自然科学」の意味と考えてよいでしょうし,このような主張の妥当性を吟味するのが規制科学であり,上記の場合は公共政策学会で研究対象として議論され,発表されたということです.