科学万能論の反省と生態リスクの順応的管理

北大文学部ワークショップ「予防原則は〈使える〉か」
日時 9月12日(日) 10時〜17時 場所 北海道大学人文社会科学総合教育研究棟W409会議室
主催「リスク論を軸とした科学技術倫理の基礎研究」(科学研究費補助金 基盤研究B2 代表者 蔵田伸雄)
松田の講演内容


環境倫理学論争について 岡本裕一朗(2002)『異議あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版) 書評 
 保全生態学者の大多数は,人間中心主義です.アメリカ生態学会の委員会報告でも,自然保護の最大の根拠は「世代間持続可能性」です.ですから,人間中心主義なくして自然保護なしという批判は,私は大歓迎です.


究極的な目的としての保全を評価する指標は存在しないか?(生態学会釧路大会での論点)
・数字を一人歩きさせたのは,テレビ朝日ニュースステーション「ゼロリスク論者」である − 所沢ダイオキシン問題
 言わんとするところは,特に説明不要と存じます.
 あの報道をすれば,所沢周辺農家の作物が売れなくなることは,,貝割れ大根騒動を経験したあと,十分予測できたはずです.報道側,濃度測定をした市民団体側は,彼らの農家が売れなくなることを覚悟の上で,産廃処分場の撤廃を求めてあの報道をしたはずです.


人々は必ずしもゼロリスクを求めているわけではない(平川秀幸さんのサイト
 「必ずしも」といわれたらそうかもしれませんが.これは私の実感にあいません.たとえば国際捕鯨委員会科学委員会の以下の議論では,捕鯨による地球の寿命よりはるかに長い時間尺度の絶滅リスクも考慮すべきだと議事録に記されています(Matsuda H (2003) Challenges posed by the precautionary principle and accountability in ecological risk assessment. Environmetrics 14: 245-254)."Time scales for the mean time to extinction under the RMP evaluated by the standard population viability analysis is far too long (1045 years; IWC/SC, 2001), in comparison with human history and even the longevity of the earth.""When considering this information, the RMP is already excessively precautionary. However, the IWC/SC considered that ‘the long time-scale was necessary to examine the mechanisms of the interaction between environmental variability and exploitation’ (IWC/SC, 2001)."


生態学自身の権力性をどう自覚すべきか?(科学者万能論?)
 生態学が当初はマイノリティであったが,いまや、自然再生ということも含めて、社会の主流に祭り上げられ、生態学者の発言は大きなウエイトを占め、さらには、マイノリティの人たちには「権力者」としても立ち現れているという現実の中で、生態学者自身が、その権力性にまだ気づいていない


鬼頭秀一(2004)「リスクの科学と環境倫理」(丸山徳次編『応用倫理学講義 2環境』岩波書店所収116-138)への意見

リスクゼロに関しては、その政治性を読み解くような作業の中でそのことを評価する必要がある?
>リスクゼロがありえないのは,政治性の問題ではなく,科学の問題.白を黒と言いくるめるのが政治性か?たしかに,リスク論が未熟な時代においては,体制側は「安全宣言」にこだわり,市民側はゼロリスク論にこだわった.これらはどちらも現在から見て間違いだったので,一方だけが政治的に誤りとできないという主張は理解できる.また,そのことの歴史的意義を評価することと,現在,ゼロリスク論を主張し続けることは異なる.鬼頭氏がゼロリスク論の「歴史的意義」を評価することが,現在もなおゼロリスクを追及する主張に賛成しないとすれば,過去を評価することに異論はない.

リスク評価が本質的価値を見逃す とか リスクが比較衡量できるか という主張は,リスクという数値が一人歩きさせる危険性を主張するのと同じ.だからといって,リスク評価をしなくてよいということにはならない.数字を一人歩きさせたのは,所沢ダイオキシン騒動では,ゼロリスク論者のほうである.