保全生物学論争

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松田の2006.1.4付け公開書簡に寄せられた個人メールなどを、本人の許可を得て転載します。お問い合わせは松田裕之matsudaynu.ac.jpまで。なお、2004年8月の生態学会釧路大会までの論点はこちら

2006.1.5 國崎貴嗣氏よりの書簡
2006.2.1 竹中践氏の意見(本人のサイトで公開)


2006.1.5 國崎貴嗣氏よりの書簡
Date: Thu, 5 Jan 2006 13:00:12 +0900
松田裕之先生
はじめまして。岩手大学の國崎と申します。
松田先生のブログ(だけでなく著書)をいつも読ませて頂いております。1月4日付けの先生のブログにおける意見募集を受けての意見メールです。

1.保全生態学の捉え方
まず,私は林学(森林科学)という応用科学(持続可能な森林保全を目標とした学問)を中心に学術活動しているせいか,松田先生の論考(生物科学56巻4号)全般に共感いたします。
例えば,松田先生の論考の一部を林学に当てはめてみますと,「持続可能な森林保全」は人間中心主義による価値観ですが,この価値観を実現するために必要となる無数の「意思決定のための材料」を,科学的命題として客観的に追究する学問が林学である,ということになり,実際そのとおりだと思います。
一方,工藤慎一先生の論考(生物科学57巻2号の101ページ〜102ページ)では,保全生態学が「個人や社会がどう振る舞うべきか」という価値観を科学的に検討する学問であるとの主張をされているように読めます。しかし,松田先生の論考(生物科学56巻4号)には,価値観と科学的命題を区別すべきであることが明言されてあり,かみ合った反論になっていません。
おそらく,工藤先生は,その他の生態学,例えば個体群生態学や生態系生態学という名称と保全生態学という名称の構成を同列に扱われていることに由来するご意見を述べられているのではないでしょうか。つまり,個体群を科学する個体群生態学,生態系を科学する生態系生態学と同様に,保全を科学する保全生態学というご意見なのだと読めます。確かに,生態学には,その他にも進化生態学,繁殖生態学,行動生態学,生理生態学,群集生態学,景観生態学などと,「生態学」の前に「対象(現象)」を冠とした呼び方が多いのは事実です。しかし,数理生態学や化学生態学のように「生態学」の前に「手法」を冠とした呼び方もありますので(生態学事典,2003年,共立出版),全てが「対象(現象)」生態学という名称構成ではありません。保全生態学とは「生態学」の前に保全という「目標」を冠とした名称構成であると捉えるのが妥当でしょう。

2.57巻2号の103ページ左段中程〜104ページ左段中程まで
次に,工藤先生の論考(生物科学57巻2号の103ページ左段中程〜104ページ左段中程まで)については,一読者としては適切な批判になっていないと感じました。
例えば,規制科学や水産学の事例について説明していない旨の部分については,紙面(ページ数や読みやすさ)の制約に関する問題であり,紙上討論で取り上げても有意義でない論点です。
「「科学の規範」を無視することこそ・・・自殺行為なのではないのか」という批判もかみ合っていません。松田先生の論考(生物科学56巻4号)には「無視する」旨の論調はありません。

3.57巻2号の104ページ左段中程〜105ページまで
工藤先生は,学会活動を「科学の規範」と折り合いをつけるものとお考えのようです。確かに,自然科学者の社会(academic society)内においては,「科学の規範」と折り合いをつけるように活動する責任はあります。しかし,学会が一般社会と向き合う場合には,科学的命題(事実)を述べるだけでなく,価値観を述べてもよいはずです。一般社会を構成する団体の一つとして,ある価値観を表明することは否定されるべきなのでしょうか。述べてはいけないのであれば,自然科学者が科学者の肩書きで執筆した一般書や,新聞やテレビでの提言なども全て否定されねばなりません。しかし,こうした世論が強いと感じたことはありません(本はそれなりに売れ,新聞の投書欄に「提言する行為」に対する批判意見が載っている訳でもないから)。
松田先生の論考に沿いながら,
・ある価値観の範囲内で意見を求められる場合
・ある価値観の範囲内で意見を求められていない場合
を明確に分けて考えればよいと思います。前者であれば,科学者として科学的事実を述べるに止めるべきですし,後者であれば,新たに価値観を表明しても表明しなくてもよいでしょう。
むしろより気をつけるべきことは,松田先生もご指摘されているように,科学的事実(科学的見解)を述べているのか,価値観を述べているのかを科学者が明確にすることだと思います。自然科学者はあくまでも自然科学の専門家であり,価値観の専門家ではないということを一般社会に説明することは大切です(価値観の専門家が存在するのか,という議論は避けます)。
最後に,「生態学=保全」という流れがどんどん強まり,「保全(=技術)が残って,生態学(=科学)が滅びる」という事態
にはなり得ません。この点についても,松田先生がベゴンらの生態学(訳本)の日本語序文を引用しながら既に指摘されているとおりです。基礎があるから応用が成り立つ,あるいは基礎と応用は車の両輪(相互に影響する)なのですから。

以上です。このメールを書くことで,私自身の認識も整理できました。陳腐な意見ですが,ご一読頂き有り難うございました。
  國崎貴嗣(Takashi KUNISAKI)