書評:チャールズ・クローバー「飽食の海:世界からSUSHIが消える日」(岩波書店) 

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松田裕之

1.漁業生物学者は、なぜ乱獲をことさらに問題にし始めたのだろうか?

 沿岸の水産資源、遠洋の高級魚がめっきり減っていることは確かである。しかし、米国Scripps海洋研究所のJeremy Jackson教授のように、それを「extinction of total ecosystem」と表現するのは科学的ではない。本書のようなジャーナリストでさえ、海の生物体量は変化なく、種構成が変わったのだと述べている(P66)。本書にたびたび登場するカナダのRansom Myers教授は、マグロなど海の大型魚が乱獲によって九割減少していると発表し、2005年、Forbes誌の世界十大人物に選ばれた。私が始めて彼に会ったのは1996年のモントレーで開かれた国際研究集会だった。噂には聞いていたが、彼が元カナダの水産海洋省にいて、組織と対立して辞めたという話も本書に詳しく載っている(P113)。私ももと日本の水産研究所にいて辞めた人間だから、馬が合うのか、いつも彼の会議に呼んで貰っている。けれども、自国政府に対する態度は少し違う。私もかなり厳しいことを言うつもりだが、良いと思うときは誉めるようにしている。
 著者も含め、海外の環境保護派は十分に資源があるミンククジラの捕獲に反対する。けれども、日本では主要な環境団体すら反捕鯨に同調していない。
 国際自然保護連合は1996年に、ミナミマグロをシロナガスクジラより絶滅の恐れの高い「深刻な絶滅危惧種」(CR)に指定した。そのミナミマグロがパックで安売りされている現状も問題だが、マグロ九割激減説には内外のマグロ学者から強い反論がある。それは著者も承知している(P37)。今、欧米の環境科学者は、いかに極端な結果を報告するかを競い合っているように見える。
 今までの科学者はその努力を怠っていた(P67)といって、著者は誇大宣伝をする科学者を歓迎しているようである。Myers教授は「悪いニュースは、いつの世にも歓迎されない」とあるが(P114)、今はそうではない。それを歓迎させる風潮を作ったことが、彼らにとっての大きな成果である。本書によればその転機は、グランドバンクス漁場での大惨事のあと、研究資金を政府でなく、自然保護団体から得る科学者が増えたことにある(P115)。それが、誇大宣伝の競走につながった。資金源が多様化することは悪いことではない。問題は、評価が中立的に行われるとはいえないことである。
 今、欧米の環境、生態系の大学院生の間では、菜食主義が大流行している。研究室の院生の半分が菜食主義者だという例も珍しくないだろう。しかし、その教授たちにはほとんどいない。院生も、子供の頃から菜食主義だった人は稀であろう。肉食から菜食主義に極端に変わる欧米人の風習が、科学の権力にも現れている。そして、自分が菜食主義になるや否や、肉や魚を食べる人を軽蔑し始めるのだ。
 科学者の役割は、厳しい事態で踏ん張って好転させるのではなく、「単に魚の減り具合を測定しただけ」という批判(P115)は、反面教師として、肝に銘ずるべきである。ただし、これはIUCNにも言える。絶滅危惧種のリストを作る際に、カナダの漁業海洋省は「あらゆる科学的局面からの見解をいれずして、どうしてそんな評価ができるのか」と問いただした際に、IUCN担当者は「われわれは、ただ評価する」と答えた(P214)というから、同じことである。
 著者は、絶滅危惧種に挙げられる魚が、近い将来絶滅すると本気で思っているようである(P189)。国際自然保護連合(IUCN)の絶滅危惧種判定基準は、極端な予防原則に基づいている。その基準を改良した日本の絶滅危惧植物でさえ、1997年に列挙した絶滅寸前(Critically Endangered)の約500種のうち、この10年間に絶滅したものは1種もないという。本来、絶滅寸前とは、10年以内に絶滅するリスクが50%以上と判定されたものとされている。これらが極めて危機的な状況にあることに異論はないし、本当に絶滅する魚種がないとは言えないが、判定基準の文字面を追っていては、現実とかけ離れた虚構を見ていることになる。IUCNの絶滅危惧種の定義には、もっと抜本的な改良が必要である(魚住雄二「マグロは絶滅危惧種か?」成山堂)。
 本書では1970年代のペルーのカタクチイワシの激減も乱獲が原因のように書いている(P109)が、これも環境説と乱獲説の二者択一の誤りである。高水準期には、これらの小型浮魚類は採算割れするほどたくさん獲れる。それが減ったのは自然変動であり、乱獲が原因ではない。しかし、少なくとも1990年代の黒潮域のマサバについては、減った後まで獲り続けたのは乱獲であると、日本の水産総研センターの行政文書にも明記されている。

3.健康のための魚食は環境に優しくないか?

 こと、生態リスクに関しては、著者の以下の表現は正当である。「有名シェフがこれっぽっちの批判も受けずに、絶滅の危機に瀕している魚の破壊にせっせと一役買っているというのに、どうして化学企業の重役たちを、数グラムの廃液で海洋環境を汚染したといって責められようか」(P191)。乱獲の基準は、産卵魚のせめて7割しか獲るななどという基準があり、それすら満たされていない。それに対して、化学物質では、1割の親に異常が出たら規制対象になっている。
 ところが、他の部分には記述がないが、P290に突如かなり強い調子で、「健康を脅かすダイオキシンやPCB、抗生物質や殺虫剤の残留物を含んでいる魚」を「絶対に拒否したい」と書いている。これらや水銀を全く含まない魚はいないといってもよい。濃度が問題だが、それは考えにないらしい。逆に、健康に良いとされる不飽和脂肪酸(オメガ3脂肪酸)がマグロに高濃度で含まれているので、不飽和脂肪酸そのものを敵視している(P193)。しかし、これはイワシにも高濃度で含まれていて、魚価あたりの含有量で比べれば、おそらくイワシのほうが効果的だろう。著者はイワシを健康食品として推奨することにも反対なのだろうか。
 環境団体への批判も忘れない。資源と生態系に優しい漁業に対する認証制度であるMSCの難しさとして、MSCの運動がアメリカ製でないことに起因する米国環境団体の狭量な嫉妬を挙げている(P274)。「アメリカの環境保護団体が提唱するような単細胞的な不買運動」では物事は解決しない(P185)。ツナ缶メーカーの半分は「イルカにとって安全」と書いているが(P196)、他の生物への影響は大きいと批判している(P200)。さらに面白いことに、マグロ・フレンドリーなツナ缶も提案している(P196)。これは、保護対象を1尾も取ってはいけないという意味ではないという主張を示唆している。それは良いことである。極端はいけない。「未来の漁師は、捕らえた魚ではなく、捕らえなかった魚によって評価される」(P310)というのは、私が1995年(『「共生」とは何か』現代書館)に主張した漁業の国有化の主張と通じる。この点ではわが意を強くした。
  著者は魚を食べなくても肉を食べ続けることができると思っているようだが、私はそうは思っていない。原著よりさらに問題なのは翻訳である。訳者は、日本の現状をグルメ番組ばかりで高級魚の浪費を美徳としていると非難している。英国でも体重と健康が気になる女性のための魚料理の本が魚食を勧めているらしい(P20)。健康食品としての需要が魚価を吊り上げ、乱獲を助長していると説く(P38)。著名な料理長は健康には気遣うが、乱獲された高級魚を多用すると説く(P184)。しかし、日本の最長寿の人気美食漫画の一つである「美味しんぼ」は健康と環境の重要性を常に説いている。
 「世界からSUSHIが消える日」と邦訳をつけているが、これは原題(The end of the line: How overfishing is changing the world and what we eat)とは違う。原題は漁業が行き詰まっていることを延縄のラインに掛けているのだろう。副題は確かに魚食のことも論じているが、少なくともこの15年来、世界中にすし屋は急激に増えているだろう。どちらかといえば、乱獲が寿司を世界に広めたというほうが正確である。将来は寿司ネタの多くが禁漁または乱獲で取れなくなるだろうと本書からは窺われるが、本書では寿司自身が消えるとは言っていない。Pauly博士(Jackson博士のSlime化仮説も同様)は世界の海がクラゲとプランクトンだらけになると予言している(P38)というが、イカとイワシ類はずっと食べ続けることができるだろう。ただし、スルメイカ、マイワシやカタクチイワシは自然変動が激しいから、主要な寿司ネタは10年単位で変わるかもしれない。「美味しんぼ(第2巻7話)」では、葉山の根付きの太平洋マサバが一番うまい寿司ネタだと紹介しているただし、黒潮域のマサバが「ニュージーランドまで回遊するというのは誤り。親潮域に回遊する。

2.生態系管理の可能性

  第7章は古典的な水産資源学(の無力さ)を紹介している。有名なシドニー・ホルトは1950年代に欧州と米国の考え方の違いを指摘していたという。欧州の漁業学者は資源管理の必要性を説き、米国では漁業活動の自由参入を重視したという(P104)。日本の漁業権制度は、米国とは正反対である。共有地の悲劇を提唱したハーディンの紹介でも、自由参入を批判し、スティンティング(共有者の数の制限)が必要と論じている(P152)。管理人を管理する必要性があることも紹介している。そして、Simon Levinが説く「信頼関係を築く」重要性には触れず、罰則と人数制限が必要と説く。
 著者が私と意見が一致しているのは、最大持続漁獲量(MSY)理論を否定している点である(P105)。これを最初に説いたのはラーキンだったという。2002年のヨハネスブルグサミットでもMSYの呪縛から逃れていなかったと批判している(P105)。もっとも、国連海洋法条約もMSYに基づいている。国連海洋法条約については、便宜地籍船問題を解決する方途がないことを批判している(P149)。これは正しいと思う。日本は、著者が望む「MSY理論に基づかない漁業管理を目指す国」に、事実上すでになっている。総許容漁獲量制度許容漁獲量算定のための基本規則を見れば、それがわかるだろう。
 トロール漁業に対する批判は手厳しい。北海の海底を根こそぎにしているだけでなく、深海のオヒョウなども根絶やしにしているという(P90)。もう深海域の資源も獲り尽くされている様な印象を受ける(第6章)が、これは私の認識とは異なる。深海にはイカやハダカイワシなどの膨大な資源がある。また、トロール漁業でタラがいなくなると、「世界中の人の好物であるエビやカニが埋めていく」というのは本当だろうか(P130)。それなら、トロール漁船は胸を張ってしまうだろう。
 北海での浄化能力に富むイガイや牡蠣の乱獲が富栄養化をもたらした(P57)というのは初耳だった。今度調べておこう。北海が世界で一番酷使されているというが、東シナ海は大丈夫だろうか。イルカは減っているが、アザラシやアシカは今のほうが昔より多いと言う記述も面白い(P59)。クジラが増えて漁業者が迷惑しているという状態は、欧州にもあるらしい(P119)。
 P234からは北海のニシン、バレンツ海とフェロー諸島のタラ、大西洋サケの資源管理について分析し、評点をつけている。いずれも、それなりに管理に成功したと評価している。特に、アイスランドで実施している譲渡可能漁獲割当量制度(ITQ、P244)を概ね評価している点が印象的だ。アイスランドを含めて、ITQを導入した国では既得権化に反発してストライキが起きるなど、社会問題が起きていると聞いている。
 第14章では、海洋保護区(MPA)の効用を紹介している。しかし、その推進者たちにとって、その効能は持続可能な漁業のためとはいえないらしい。「肝心なのは、人の手が入らない自然はどうなっているかのかを、われわれに見せてくれる海域があることなのだ」という主張を紹介している(P253)。著者も半分は同意していると思うが、MPAは持続可能な漁業の極めて有効な手段の一つであるし、段階的にMPAを作ることで、それは漁業者にも理解されることだろう。ただし、そこで全ての漁業をやめる必要はない。
 著者は毎年国際捕鯨委員会(IWC)に参加しているらしい。海外の環境団体は十分に資源がある捕鯨に反対する。本書で述べる漁業の乱獲に対する告発は、捕鯨批判より、一層過激である。我々は、IWCの捕獲枠を他の漁業なら到底成り立たないほど厳しいのに、なお反捕鯨国は反対している理不尽さを批判していたが、ここでは世界の漁業を一夜にして禁止させるべきだという根拠として、IWCを引き合いに出している(P109)。著者の本音は、漁業の否定を目指していることになる。
 しかし、新たな資源管理理論は載っていない。今や生物多様性条約でも推奨されている順応的管理(adaptive management)は、本書には何も書かれてはいない。推進者であるCarl Waltersは何度か登場するが(P114)、おそらく著者は、順応的管理を推奨する気になれないのだろう。それは、持続可能な漁業を可能にする管理手法だから。

4.一貫性を欠く非論理的主張

 説教臭い人間によく見られる性として、著者も過去の自分を問わず、今の自分を評価基準にする。自分より優れたものを合格とし、少しでも劣ったものを批判する。これは教育者ならば最も戒めるべきことの一つである。本書を書き始めた時に著者が自宅の台所を探すとマグロのステーキやツナ缶が出てきたと躊躇なく書いている(P195)。ツナ缶は買ってはいけないものではなかったのか。著者は本書を書く直前の自分にも唾を吐いているのである。
 本書のご都合主義は随所にある。ある場所で明白な根拠として使われたことが、他の場所では一蹴されている。たとえばマグロ九割減少説の根拠は漁業の単位努力あたり漁獲量(CPUE)のデータに基づいているが、それは2章では正当であり、7章では批判の根拠になっている(P111)。養殖への態度もちぐはぐだ。アザラシが深海魚をたくさん摂食しているという事実に触れかけていても(P127)、それ以上の考察には至らない。IWCは鯨類の捕獲だけを禁止した聖域(sanctuary)を設けているが、ここが「地球上で管理されていない共有地の申し分のない例」であると断言し(P154)、海洋保護区の議論では特定の種をターゲットにした保護区選びは間違っているといっている(P258)。しかし、IWC自体に対する批判は本書には書かれていない。
 ただし、現実的な対応を認める場面も時々ある。全面禁漁を推奨しながら、メロ操業者連合の紹介では、「もし守るべき所有権を持っていなかったら、このようなこと(引用者注、違法業者の告発)はありえなかっただろう」という主張も紹介している(P157)。健康食ブームを批判していながら、「野生魚の保護は人間の健康問題に他ならない」とも述べている(P303)。
 著者は魚を食べなくても肉を食べ続けることができると思っているようだが、私はそうは思っていない。本書は海の「砂漠化」を予言するが(P14)、私は農業による農地の砂漠化のほうが心配である。歴史的に見て、漁業対策は不十分で乱獲の歯止めにはなっていなかったと批判しているが(P14)、環境諸団体が諸手を挙げて成果といっている地球温暖化防止のための京都議定書も、二酸化炭素濃度を抑制するのに不十分である(松田『はじめての環境経済学』への書評)。他者の過去の失敗を批判するのはたやすい。しかし、今の自分の限界を見据える勇気も必要だろう。
 ただし、九割減少は過大でも、乱獲によってマグロや高級魚が乱獲されている事実は明白である。
 本書は漁業に対する嫌悪感に満ちている。漁業では水揚げしない雑魚を大量に投棄していると知り、欧米人は嘆くだろう。しかし、彼らは多量の残飯が自分たちの目の前から捨てられていることも嘆くべきである。日本人は、欧米人に比べれば、平均カロリー摂取量はかなり少ない。そして、彼らよりも長寿である。私は、それは日本人の誇りだと思う。1970年代に貿易摩擦が激化したとき、米国人は「日本人はウサギ小屋に住む」といって非難した。狭い家に住むほうがはるかに環境に優しい。それは今でも変わらない。
 本書はマグロの畜養を非難しているが、養殖業には比較的寛容である。たとえばマグロの畜養を批判するとき、卵から育てる「本来の意味の養殖であれば良い考えだろう」と書いている(P25)。養殖への批判は第16章で記され、サケについて詳しく書いている(P300)ものの、なぜか他の章とは一貫していない。実際、乱獲していない「食べても良い魚」を列挙しているが、ロブスターや太平洋サケを認めている(P313)。

本書に対するEconomist誌の書評。(ご教示いただいた石村学志さんに感謝します)
上記書評の内容は全て松田個人の意見です。